2010年11月18日木曜日

二次無能力




















極端な例かもしれませんが、アメリカで本当にあった話です。

白昼に銀行強盗を働いた泥棒が、レモン汁を顔につければ監視カメラに映らないと本気で思っていたらしく、これを信じて、銀行強盗をしました。すると、当然、すぐに警察に逮捕されてしまいました。逮捕されても、銀行強盗は、なぜ、自分がすぐに捕まってしまったかを理解できず、自分が監視カメラに写っていたという事実を、すぐに受け入れなかったそうです。
("Unskilled and Unaware of It:How Difficulties in Recognizing One's Own Incompetence Lea to Inflated Self-Aswsessments"という心理学の論文より)

このレモン汁の泥棒は、その「レモン汁を顔につければ監視カメラに映らない」を怪しむことをしなかったようです。このような、仮説に対して自己評価が欠如していることを、心理学では、二次無能力と呼ぶようです。

例えば、何かの技術や事柄に、熟練していない人が、「実はかなりのエキスパートである」と思い込んでしまう傾向がある場合もあてはまるかと。ダーウィンも発言しているのですが、「熟知よりも無知の方が自信の源になる」と語っているようです。

幸運なことに、最近、その道のプロフェッショナルな方にお会いする機会が増えました。

日本のGoogle創業者に相当するのではないかと考えられるプログラマ(私にはそう見えました。。)や、この厳しい時代に、米国の特許事務所へ渡米して米国のビジネスを学びに行く弁理士さん。

驚くのが、彼らは、恐ろしいほど、謙虚なんですよね。

プロフェッショナルな方とは、人に対してとても謙虚で、自分がエキスパートであると鼻にかけたり、決してしないように思います。

見習いたいものですね。

こういうプロフェッショナルな方に反して、残念ながら、いわゆる「無知の知」を持たない二次無能力になってしまっている人は、たくさんいる気がします。気をつけたいのでは、自分自身も、そのようになってしまっていることにより、無意識に、人の成長を阻害したり、傷つけていることがあるのではないか、ということです。

例えば、自分が、社会的に地位が高くなった場合に、自分が二次無能力になっていることに気がつかないことにより、社会に与える影響は大きいでしょう。それが、会社の経営者であった場合は、なおさらです。

これからは、プロフェッショナルを目指すとともに、「無知の知」を身につけられることが望ましいですね。

(写真は、近くの川辺で、ご機嫌のアトムです♪)

2010年11月9日火曜日

ビジネスのリスク




















いつもの神田の床屋さんにて・・・

「やっぱり、床屋さんは、職人技だから、仕事が将来も安定できますよね。」

と、床屋さんの全国大会で一位をとったにもかかわらず、そんなそぶりを全く感じさせない、謙虚な店長に私からの無責任な一言。

「いやいや、例えば、頭にすっぽり、機械をかぶせると、自動的に、髪を切ってくれる機械が発明されたら、僕の仕事は終わりですよ。」

なるほど、確かにそうですね。。

僕らは、特許に関わる仕事をしています。

しかし、法律改正により、特許では、出願書類を作成しなくても良いことになりました!と、決められた場合は、弁理士さんや特許事務所さんの仕事はなくなります。
また、特許により、独占権を確保するのはやめて、共有財産とすることになりました!という世の中になった場合は、知財部ですら、仕事がなくなるリスクがあります。

このようなリスクを抱えているのは、特許業界だけ・・・

ではないですよね。

今の世の中、国内の大企業に勤めていれば、グローバル企業に合併されるリスクはあるし、自分の上司がインドネシア人になるリスクだってあります(味の素の人事はそうらしい)。

全国一位の床屋さんだって、リスクがあるんだから、我々だって、リスクがあって、当たり前です。

それでは、全くリスクがない方法はないか?

僕が、床屋さんという職業がなくなったと聞いて、店長に、他の仕事を依頼する・・そんな人間関係があれば、ある意味、リスクはないのかもしれません。つまり、一つのビジネスの継続を目的とするのではなく、そのビジネスで出会った人のつながりから、他人に自分を信用されることこそが、職を失うことへのリスク回避になるかもしれません。

「でも、僕は、きっと、髪を切ってくれる機械ができても、店長に切ってもらいに来ると思います。」と彼に伝えました。

(写真は、今週の日曜日の足尾の紅葉です。猛暑だったにもかかわらず、モミジは燃えていました。)

2010年11月8日月曜日

課題は、発明の一部なのです














写真は、昔の中学一年生の教科書です。第一章は、「住宅」から始まります。

この教科書は、果たして、何の科目の教科書でしょうか?

実は、数学の教科書なのです。昭和24年文部省検査済で発行された教科書です。

この本の最初は、こう始まります。
「私たちが生活していくのに、どうしても必要なこととして、衣・食・住の三つをあげることができる。特に、わが国では、この三つのどれもが、国民全体にとって、重要な問題としてとりあげられている。・・」
どう考えても、社会の科目ですよね?

なぜこれが、数学の教科書なのでしょうか?

話の展開としては、社会における住居の役割の後に、住居の大きさについて、関心を引き寄せて、直方体等の形について説明したり、面積や容積を測ることに関心を持たせています。
ここで、住宅の説明も、おまけ程度で記載しているのではなく、見開き4ページを割いています。

いやいや、数学っていうのは、直方体などの形の名称や、面積の公式を覚えれば、よいから、このような記載は、効率を落とすよね・・というのが、ここ、20,30年の考え方かと思います。

本当に、このような、数学の授業は、非効率的でしょうか?

ところで、特許の明細書に記載する【発明の開示】という、発明の中核を記載する部分には、【課題】が含まれます。つまり、課題とは、発明の一部なのです。

ちょっと不思議ではないですか?

つまり、この技術には、こういう問題がある、ということに気がついたことは、既に、発明の一部を創作していること、になるのです。さらに、この課題は、発明の開示の最初に記載しまして、発明の内容の前に記載します。つまり、課題がないと、発明は何も始まらないということです。

課題というニーズがあって、初めて、発明が創作される。

上記の数学の教科書で、住宅から話が始まるのは、「なぜ、数学があなたに必要なのか?」を、教科書が教えているのではないでしょうか。
このことは、直方体の形を言えたり、面積を求められることよりも、大切なことだと思います。

物事のニーズや課題を大事にすることが、興味や関心を育て、知的で創造的な人間や発明を作り出すように思います。

2010年11月1日月曜日

特許制度がイノベーションを阻害?




















HOLLY WOODは、なぜ、西の端っこのカリフォルニア州で、映画を盛り上げることができたのか?

知ってました?

ちなみに、トーマス・エジソンの研究所は、アメリカでも北東の端っこ、ニュージャージー州にありました。

ヒントで、わかりましたかね?

20世紀初めの当時、現在では超大手の映画製作会社であるFOX社やパナマウント社は、エジソンの映写機や映画制作にかかる発明の特許が及ばないよう、東から離れ、西の端っこで、特許の制約の及ばないハリウッドにて、映画を盛り上げ、ハリウッドにて、映画にイノベーションが起こった・・というのが答えでした。

ここ近年、特許権者を強力に保護する、いわゆる“プロパテント”に対して、疑問を呈する本が、日本語でも出版され始めました。上記のハリウッドの話題は、写真の「<反>知的独占」(著者:ワシントン大学の経済学者:ミケーレボルドリンさん)に記載された、特許がイノベーションを阻害すると考えられる一例として、示されていました。

確かに、特許がない場所で、初めて、映画にイノベーションが起こったということです。しかし、そもそも、もしも特許がないとしたら、エジソンは、映写機を発明したのでしょうか?映写機がなければ、当然、映画のイノベーションも起こらないし・・。

「にわとり」が先か、「たまご」が先か・・のような・・。

この本では、特許や著作権など知的財産制度は、利用を不当に制限し、イノベーションの阻害であるため、ないほうが良い、という、やや極端ではありますが、挑戦的な提案をしています。

しかし、弁理士さんや知財関係者には、大変、ショックですが、このような予測は、必ずしも、無視できるものではないと考えられます。例えば、欧州特許庁は、2025年の「未来のシナリオ」の中の一つに、「特許制度は世界中でなくなっている」ということも、シナリオとして、予測しています。

また、著者が書いているように、今のソフトウェアのイノベータは、どうやったら、マイクロソフトが雇う弁護士から、特許侵害を訴えられるリスクを逃れて、新しい革新的なビジネスを始めることができるのか?という問題があるのも、現実だと考えます。これは、現在の米国、日本のソフトウェア産業が行き詰まっている要因の一つとも考えられるのではないでしょうか。

非常に難しい問題です。

産業の発達(イノベーション促進)のためには、特許制度はなくなった方がよいのですかね?

いやいや、やっぱり、失敗を繰り返して、ようやく成功した第一人者は、失敗のリスクを負わず、成功した部分だけ模倣する者に対して、ある程度の、優位性があるべきでは・・・。

この本では、確かに、イノベーションが促進できる理想的な世界が描けているように思えます。
この本の世の中のように、誰もが知財権という、「個人」の財産を主張せずに、「社会」の利用を優先させるような社会は、近い未来で到来することが望ましいと思います。

しかし、現実として、今、現在、特許制度がある状態なのです。つまり、数々の特許権という財産権が、この瞬間も生まれています。このような状態で、仮に、特許制度がなくなると、彼らの個人の財産権を無にすることになりますね。したがって、行政や国が、個人の財産に対して、そこまで介入するのは、時間をかけて調整しなければなりません。資本主義で、かつ、民主主義の世の中で、財産権である知財権を放棄することを国民が理解し、その考えを大多数が支持することは、現在では想像がつかないかと思います。
さらに、企業や個人の技術の探求による解決手段を守るには、特許制度以外の制度が思いつきません。確かに、特許の存続期間の短縮や、特許権者が差止請求をできなくするなど、特許権者の権利行使をある程度、制限することは、イノベーションが促進されることを前提に、あってよいと思われます。

しかし、最初のイノベータの経済的利益を、制度的にも無にすることは、資本主義社会が続く限り、考え難いのではないでしょうか。

特許制度とイノベーションの関係は、今後、大いに、議論されるべき事柄だと考えます。これからの時代に、どのような特許制度に変わっていくのかということも非常に興味がありますね。

(写真のPC画面に写っているのは、経済学者ではなく、法学者が特許制度の意義に対して問題を指摘している「Patent Failure」という本です。いやー知財関係者には、恐ろしそうな本ですが、興味深そうです。次の課題図書にしようと思います。)