2011年11月25日金曜日

希望への道

この人みたいに、紳士に年とりたい。

メンターという人は、出会ったことがありませんでした。というか、この人に出会うまで、メンターという言葉があることすら知りませんでした。


早朝、仕事を始めて、順調に次の仕事へ・・と移ろうとしていると、電話が。

「小木です。」

「あ、小木さん、家にいる?」

私は、その人との待ち合わせを、すっかり失念していました。私にとっては、とても楽しみにしていた打ち合わせなのですが、前日の深夜までの飲み会で、朝に予定があることをすっかり失念していました。

「すみません(汗。汗。)、今すぐ行きます。20分から25分お待ちください。大変、申し訳ありません!」

「ううん、大丈夫。むしろ、事故起こさないように、ゆっくり来て。」

あいやー、なにやっているんだ俺。最低じゃないか。。それにしても、事故を心配してくれるなんて・・。
慌てるも、なぜか、冷静に、待ち合わせのファミレスに着く。

その人は、ファミレスで、珈琲を飲みながら、海外の新聞を読んでいました。

「ああ、小木さん、わざわざ、お時間を頂いて・・」

25分も遅刻した自分に対して、知事に呼ばれるほどの、55歳の企業幹部の方は、こんな温かいお言葉を・・。

私は、恥ずかしくて、言葉もでないが、黙っているのも失礼なので、平常心を装い、会話を始めた。

会話の内容は、いたってビジネスであり、経営の話。しかし・・

「人を活かすことが好きなんです」

事業がうまくいかない経営者や、海外のビジネスマンに、気前よくアドバイスする。

一つ一つの言葉が、優しさ、謙虚さ、思慮深さ、に溢れていて、単なる利益活動ではなく、社会貢献にまで届く。その人や会社に希望の種を蒔くことが、楽しくて仕方がなく、若い人と出会う喜びを何よりも大切に感じている人なのである。そのことが、僕にも伝わってくるほど、想いが貯められているのか・・。

うわあ、やられた。こういう人、世の中にいるのか!?

俺、負けてるぞ・・。ていうか、ここまで達するのだろうか・・。

なんて、会話中に一人でジェラシー感じている自分。

高度な会話に、私が咀嚼できてないことを察し、席を外し、休憩をとってくれる。そして、また、熱い会話。

あっという間の2時間でした。

「今日は、忙しいところ時間を割いてくれてありがとう。」

僕は、55歳で社会的地位にあるにも関わらず、25分遅刻してきた30代の若者に、将来、このような一言が言えるのだろうか。しかも、形式的ではなく、心を込めているように、僕には感じた。

宮崎や日本の活性化を、真摯に、そして、アイデア豊富に考え、その考えを実行する紳士。

俺も、負けてられない。

そんな、帰り道。何回も、何回も紳士が言っていたことを反芻する。

その瞬間、なぜか、自分のビジネスについて、画期的かもしれないアイデアが思いつく!

不思議ですよね、人って。

その画期的なアイデアって、メンターが指摘したわけではないんです。

今までずっと考えていて、答えが出ることもなく、普通に諦めていたのですが、なぜか、急に、僕の中で、僕の仕事について、画期的かもしれないアイデアが、思いつきました。

左能で伝えられる論理的なメッセージではなく、右能で、彼から“想い”を伝えられたことで、画期的なアイデアが思いついた・・。そんな経験だったのかな?

(写真は、希望への雲の道です。こういう空からの景色って、聖徳太子も、徳川家康も見ていないんだなって、よく思います。僕らは、普通の人なのに・・。文明の進化に感謝。飛行機は、僕の会社のソシデアと名前と色が似ている、ソラシドエアー(元スカイネットアジア航空)です。宮崎の会社なんですよ。よろしくです)

2011年10月28日金曜日

仲間力

発信力を鍛えねば。

会社を始めたとき、営業が苦手な自分は、もっと自分や会社をアピールできるようにならなくてはいけないなと思いました。

自分は、昔から、頭でっかちになりがちで、人に対して自分を説明する言語力がありませんでした。大学も物理を専攻し、数字とか数式なら説明できるのかなと思うもうまくいかない。ひょんなことから、言葉を書く楽しみに気が付き、文章を書く仕事を始めました。

説明はある程度、出来るようになったかなと思っているのですが、説明力よりも、発信力が大事なのかなと思うように。

というのも、情報を単に、情報として伝えるのではなく、誰にとって有用な情報なのか自分が判断して、その情報を必要な人に、その人が理解してもらいやすい文章で発信する。こんなことができる力は、大量の情報で埋もれそうな我々にとっては、情報に踊らされない唯一の道しるべかもしれません。

そこで、この発信力を鍛えるべく、このブログを始めたり、ツイッターを始めてみるも、時々、発言に対するレスポンスがないときは、挫けそうになるのが本音です。

最近、自分の中で、身につけなきゃと思っているのが「仲間力」です。

こんな言葉あるんだな、と思ったのですが、「ルフィの仲間力」という本が、関西大学の教授から出ていまして、本屋で立ち読みしました(買えよ!)。ここからいただいた言葉です。

僕は、実質的には、一人で会社をやっているので、仲間がとても欲しくなります。自分の会社のことや、こだわってやっている仕事に、どんどん意見を交わして、お互いの信念とかビジネスを励ましあい高めあえればと思っています。

今年は、とても幸せなことに、なんだか、末永く付き合えそうと思える仲間が増えた気がします。これは、自分と相手が、自分たちの利益を超えた、もっと大きな問題に対して、一緒に解決したいという思いから、仲間になれたのではないかと思います。つまり、社会に対する大きな夢を共有することで、一緒に、これからの新しい未来を共有すると、自然と仲間になれる気がします。逆に、短期の利益やお金などの話をしても、その相手とは、仕事上の関係に終わってしまい、仲間にはとてもなれません。残念ながら、今の時代は、仕事上の関係、と呼ばれる人間関係のほうが多い・・・のかなと思います。

ただ、今の時代は厳しく、仕事上の関係のみでは、自分の利益を確保できないことから、相手の利益を減らさなくてはいけなくなってきました。そんな今の時代では、他人との関係が、仕事上の関係ではなく、”仲間”でないと、太刀打ちできなくなっているのではないかと思います。

自分は、独立という道を選びましたが、ちょっとリスクを抱えながらも、サラリーマン生活を辞めて、自分の信念に向かっていく、そんな考えと行動は、決して、海賊であるワンピースのルフィに負けていないと信じています。

勇気を持って、世の中に船出をすれば、宝物を見つけることもあるし(もちろん、毒を盛られることもありますが)、頼もしい仲間たちにも出会えます。お互いにリスクを負った仲間たちと人生を一緒に生きていけるならば、世の中がどんなに厳しくなっても、いつ死んでも後悔しないと思える、数少ない方法なのかもしれません。

(写真:仕事中、アトムのしっぽに癒されています・・。)

2011年9月20日火曜日

仕事をする顔


巣鴨で新規にオープンする美容院に仕事が決まりました!

その日、僕は、今まで見たこともなかった、Yさんの表情を見ました。

震災後、浪江町から避難して埼玉に住みはじめたYさん。犬のムクちゃんがきっかけで、僕と知り合いました。埼玉に住み始めても、心配はつきませんでした。残してきた家の心配や、子供さんの学校の問題。市役所等の公的機関とのやり取りや、友人知人の行方、浪江町に残してきた家へ一時帰宅、など、明るいニュースが殆ど無い毎日。

自分は、実際に被災もしていないのですが、Yさんから頻繁にメールを頂いて、その内容と写真から、なんて声をかければよいかわからなくなりました。しかも、そのような状態が収束する可能性も見えてこない。僕だったら、乗り越えられなかったかもしれません。

そんなYさんが、震災から半年経って、念願の仕事を獲得することができました。もともと美容師だったYさんは、美容院の就職を希望しており、話好きで、ヤル気満々なのが、功を奏して!?、見事に、就職活動に成功されました。

「小木さん、じゃあ、シャンプーしていきますか。小木さんの髪質は・・・だから、小木さんの奥さんのほうがこのシャンプーは・・・。」

自分が好きな仕事をすると、人って表情が変わります。正直、今まで、彼女のこのようなプロフェッショナルな感じといいますか、、職人っぽいところも感じていなかったから、なおさら、驚きました。

そして、とても、嬉しかったです。

もちろん、ここに就職が決まったからといって、全ての悩みが解決するわけではないのですが、なんだか、大きなターニングポイントになるような気がしました。

そして、Yさんの旦那様も、8月から働き始めたとのこと。ご家族共に本当に良かったと思います。



我々も、明日から、仕事が始まりますが、Yさんのような表情になって、最近、仕事していますかね?

あいやーー。。

なんで、そんな表情ができなくなったのかな。。

仕事に対して謙虚さが無くなると、そんな表情ができなくなるような気がします。
挨拶をしっかりして、自分を引き締めていこう!

(写真は、Yさんが勤め始めた、美容院、健康美容室フラワーです。巣鴨の地蔵通り沿いにあります。オーナーさんも愛想のよいごご家族ですので、是非、足を運んでください。マッサージもありますし。)

2011年8月31日水曜日

本当の共有





「経済が厳しい時代であっても、今の若者は、もっと失敗したほうがいい。デッサンをするときは、いくつもの線を重ねて、輪郭がはっきりしてくるもの。失敗を恐れて、最初の線を入れることすらできない若者が増えているのでは」ということをテレビで言っていました。勇気づけられます。何回か線を入れてみるのですが、輪郭がはっきりしてこないので、自信がなくなって、新しい線をひくのを躊躇するときがあります。誰かが、先にひいている輪郭をなぞっちゃうこともあります。でも、こんな時代だからこそ、自分の輪郭で、デッサンを仕上げてみたい。


このメッセージをFacebookに投稿して、いろいろな方からコメントをいただきました。テレビやネットで得た言葉に、自分が影響を受けたり、励まされたりして、それを、みんなで共有できるのは嬉しいです。


何でも器用にこなす先輩がいて、「なんで、そんなに器用にこなせるのですか?」という答えに対して、「退屈なことでも継続することです」と答えたんです。「男って、すぐいろいろやりたくなるんだけど、とにかく、継続して続けることが、何かを成し遂げられることだと思う。
」というニュアンスのことを言っていました。「継続は力なり」と校長先生も言っていたけど、今の時代、時代を言い訳にして、忘れていた気がする。地に足つけなきゃね。


これは、僕が尊敬するビオラの先輩に、飲み会で教えてもらったことを投稿しました。イノベーションだとか、変化の時代とか言われていますが、退屈なことでも、地道に継続するということを思い出させてくれました。


このビオラの先輩の親友で、コントラバスの先輩がいます。僕にとっては、なくてはならない先輩です。その先輩は、宮崎でコントラバスの職人をしています。僕は、埼玉にいる時から、彼のコントラバスの営業を東京でお手伝いしていました。かれこれ、2年以上、毎週、3時間近くの電話会議をしています。よく僕ら自身も、そんなに話すことあるな・・と後から思ってしまいます。日々のビジネスのことや、僕らにとって、仕事で大事なこととは何か?などを話し合います。


そうこうしているうちに、僕自身も妻の仕事の都合で、宮崎に来ることになりました。この先輩が、宮崎に僕を呼んだかも?とも思っています!?


その先輩が、ビオラの先輩の話を、僕がツイッターでつぶやいているのを見て、「小木くん、いろいろな人に影響受けていることをツイッターとかで、つぶやいているけど、毎週3時間ぐらい話している、俺のことは、いい話聞いたーって、つぶやかないんだね。俺、いい話してないのかなー」と指摘されました。


確かに、僕は、その先輩にびしっと僕の甘さを指摘されたり、優しい言い方で怒られたりしていますが、なぜか、今まで、ツイッターやブログで書いたことがないんです。




なぜでしょう??




人に、本質的な影響をあたえることは、単純な言葉のみで達成することはできない。


のではないのかな、と思いました。


つまり、上記のデッサンの話や、ビオラの先輩の話も、大変、勇気づけられる、いい話だと思いますが、自分を本質的に動かすのは、ツイッターでつぶやけるほど単純な言葉ではないように思います。つまり、コントラバスの先輩との会話は、影響を受けている大事な言葉を切り離すことが出来ず、ツイッターやFacebookでつぶやくほど、簡単なものではないのです。


確かに、ツイッターやFacebookは、気持ちや感情、大事なことを共有することができます。しかし、本来の共有とは、深く、長く相手と言葉を交わしているうちに、相手の意見か自分の意見か、気がつかないぐらいに、自分に浸透しているのものが、共有ではないかというような気がします。つまり、一言、二言では、共有はできないのです。


ツイッターやFacebookで、多くの人と共有するのは大事ですが、何時間でも話せるような、深い共有ができる、そんなコントラバスの先輩は、何億円の金貨よりも、何よりも嬉しい存在です。


(昨日の早朝に、そのコントラバスの先輩に、男の子の赤ちゃんが生まれました。難産でしたので、心配していましたが、本当におめでとうございます。)


(写真は、ATOMが、友人のワグナー(犬のぬいぐるみ)とカラダを張って?共有している写真です。夕食後にかならず、取っ組み合いをします。なぜか、ATOMは仰向けになって、ワグナーに乗っかってもらうのが好きなんです。Mなのかな?)

2011年8月6日土曜日

知を活かす

新聞で、「いきる」や「いかす」を、「生きる」、「生かす」を使っていますが、「活きる」や「活かす」を使う場合が多々あるのでは、とよく思っています。例えば、「経験をいかす」は、「生かす」が新聞では使われますが、個人的には、「活かす」を書いて欲しい。どうやら、新聞協会?等のきまりのようで、「生きる」を使っているようです。

毎日を、ただ、生活するのであれば、「生きる」でよいのですが、毎日を活き活き、生きるのであれば、「活きる」であるべき?なんて思っています。

僕は、弁理士という仕事をしているので、発明の話を聞いて、その発明に対して特許を出したり、ビジネス上で、そのアイデアをどうしたらいいのか・・といった話をお客さんとします。
しかし、話を伺う発明の全てが、特許になったり、ビジネスで成功できる!といった発明であるとは限りません。むしろ、いや、それは、、、特許にするのは厳しいな・・という発明が圧倒的に多いのが現実なんです。

「あ、いや、それだけでは、特許をとれないんです」

と僕が一言いってしまうと、すべてが終わってしまうことが多々あります。

発明者は、そのアイデアを、自分の一生のアイデアとして僕に説明してくれていることも多々あります。何回も考えたでしょう。それで、これでいけると思って、思い切って、僕に会いに来てくれて・・・一生懸命に説明をしてくれています。極端な場合は、そのアイデアが自分の自己実現として、熱く説明してくれる場合もあります。

そんなアイデアに対して、「それは、こんな技術が最近、流行っているので、これと同じですよね。」
と、あっさり返してしまっては、失礼な場合もあります。もちろん、特許の相談に来られているので、既に、誰かがやっていて新規ではないものや、進歩性がないものについては、はっきり、指摘しなくてはいけません。ですが、それだけで、突き放すのは、あまりに酷な場合も多々あります。

「今のままでは、厳しいのですが、それって、こういうことをやりたいんですよね?その特徴はこういうところなので、同じ方向で考えると、こういうことに適用できますか?」「あーそうなんです。その場合も、実は・・」といったように、発明を更に発展させるように、素材を「活かして」いくと、そのブレストの中で、新しい発明が生まれたり、特許になりうる技術が生まれます。

発明を「活かす」こと、これが僕らの仕事です。つぶすことは簡単かもしれません。つまり、若干、いまいちなアイデアに対して、単に、発明が生きているままに捉えて、ダメ出しをするのではなく、その発明を「活かす」にはどうしたらよいか考えてみる。アイデアの芽を活かしてあげる・・それが弁理士の仕事なのでしょう。そんな、弁理士の仕事は、なんだか人々の“知”を育んでいるように思います。

生徒の個性を「活かす」ことが大事なんです。

学校の先生が、こういうふうに発言する際には、「活かす」であって、当然、「生かす」ではありません。単に、僕らは、生きていれば良いのではなく、その人の特長を活かすことが大事で、活かすことが、生徒たちが長く生きる人生において大事であると言えます。例えば、自分の個性を活かして、社会で活躍したり、自分に自信が生まれます。それを促すことが教育と言われているのでしょう。先生は人を育みます。

僕ら弁理士は、特許庁に対する、単なる書類の作成屋さんではありません。アイデアがあればそれで、仕事が終わるわけではありません。我々は、アイデアの育て役です。そこに、「その人のアイデアの特徴を活かす」という手法を用いて、知を育んで、ひとりでも多くの知を輝かせることができれば、と思っています。

(アトムも、ただ生きるのではなく、思いっきり走りまわって、活き活きしたいよね!)

2011年7月23日土曜日

空気を読むとは

4時間00分

福岡から宮崎の往復は、飛行機を使いません。高速バスを使います。あ、いや、僕と、お金が無い学生だけかも??宮崎駅から博多駅までの時間が、だいたい4時間なんです。ちょっと、時間がかかりすぎですが・・なんと、バス代が片道2000円!なんです。これって、常磐線の上野から水戸ぐらいの交通費?

バスは、だいたい、2人席を1人で使用できますので、でかい自分でも、ゆったり座れます。

しかし、先日は、大変なことに・・。

僕は、身長が188cmありまして、小木なのに、大木だよね~。という会話を、初対面の人とは、だいたいかわします・・。もちろん、足が長い・・とは言わないですが、若干、全体のサイズが大きめ(腰回りとか、靴の大きさとか)でして・・。よく、ガタイの大きなアメリカ人(僕のイメージは、ソフトクリームを両手で食べているボブさん)が、飛行機のエコノミーシートで、ありえないぐらい、狭くひっそり座って、映画見てたりしますよね・・。僕は、若干、ボブと同じように、バスの座席では、足を真っ直ぐ伸ばすことはできません。

そんな自分が、いつものように乗り込んだ高速バス。

なんと、僕の席の前の方が、既に、窓側と通路側の両方の座席シートをリクライニング状態にだいぶ・・傾けて、お一人でお座りになっています。窓側と通路側・・両方ですよ・・。座らない方も・・。


あちゃーと思いながら、自分の座席に座ると・・・、当然・・・

せまっ・・。せまっ・・。ちょーせまっ・・。


まずい、4時間この状態ですか!うわーきつい・・。


座席の後ろにある、飲み物フォルダに、液体が満杯のアイスコーヒーを入れると、傾きの角度があまりにきつくて、溢れそうになる・・・それぐらいのリクライニング状態です・・。あわてて、ちょっとコーヒーを飲む・・。なんか、ちがうような・・。

僕の足は、当然、収納できませんから、通路側に座って、はみ出ています。

すると、通路を歩く人は、当然、僕の足が邪魔になる・・・。そこで、窓側シート前方に足を出すも・・あまりの狭さに、前の座席の上部に僕の顔がくっつきそうに・・・。

勘弁して~。。

バスは発車しました。

僕は、考えます。

この人に、なんて言えばよいか。

すみません、ちょっと狭いので、リクライニングを少し、戻してもらえますか?

これなら、あたりさわりがないから、いけるはず。でも、最悪のケースも想定しておこう、おじさんだから、逆ギレされるかもしれないし。

「そんなこと言っても、リクライニングする権利があるんだから(怒)!」

あーそれ、いわれそー。

やっぱ、“権利”くるよなー。

でも、いいたくないからーー、空気読んで、シート戻さないかな・・。鼻息あてよっかなー。


と思っていると、おじさんが、僕の前のシート、通路側だけ、シートのリクライニングを戻してくれた。

僕は、その瞬間、なんとなく、「すみません」という言葉が出た。



僕らが他人と時間や場所や会話を共有するときに、空気読んでよーとか思いますよね。

これは、空気を読んでほしい人が勝手に解釈していることも多々あります。例えば、残業をして、残業代を請求するときに、経営者としては、仕事しないで、しゃべっていたんだから、残業代請求しないって、空気読んでよー、とか思うと思うのですが、一方で、従業員は、僕らは、その時間、拘束されていたんだから、残業代を請求する権利がある!と言う場合です。

結局、権利という話になると、民事的、刑事的に問題になって、共有すべき相手同士が対決状態になってしまいます。この場合は、共有すべき相手同士で、生み出されるものは、相手に対する、怒り、で、それ以外は、何も無いかもしれません。

一方、共有する相手同士に信頼がある場合は、相手の気持を考慮して行動するため、優しさや配慮が相手に伝わります。その瞬間、相手に対する信頼も作られます。そうすると、その後の行動で、また、空気読んでないと誤解されるような行動があったときに、あの人はそんな人じゃないから、その行動が何かの誤解である、と、人に対する疑いではなく、行動が誤解だ、と判断してくれる場合があります。

例えば、ある会社と仕事をしていて、思いがけない請求書がその会社から送られてきたときに、「え、これって、相手に悪意があるのかも?」と思って、事務員が先方に連絡ができずにいる。このとき、先方のボスを信じている経営者が「誤解だと思う。ちょっと電話してみるよ」と言って、すぐに電話して、解決する・・。これは、日頃のその会社と経営者の信頼関係の成果でしょう。

信じることをすぐに忘れるのは、簡単です。よっぽどの親友でないと、あの人は、そんなことしないよ・・と言い切れないですよね。僕も本当に、すぐ、疑ってしまいます。でも、それでは、寂しい・・。

身近な人と、“あうん”で呼吸するために、相手との信頼を継続する方法として、頻繁に、相手の思いや本音を確認することが大事かもしれません。家庭や職場で、食事を一緒にして、笑いや、想いを共有していれば、信頼を継続することができますし、パソコンの時代ですから、現在は、メールやブログ、ツイッター等で、お互いの日々の思いも共有できます。

そして、自分に身近な人と想いを共有して信頼関係があれば、社会に対しても、信頼をもって、接することができるように思います。つまり、偶然席の前に座っている知らない人でも、「少し、リクライニングを起こしてもらえますか?」と仮に相手に言っても、このひとは逆ギレするような人じゃない、と思える、相手への信頼感です。うーん、もちろん、これは、ハズレがあるかもしれませんが・・。

でも、ハズレたとしても、それを信じて、つまり、相手を信じて、要求を言った自分は、社会を信頼していったと思っていいはずです、だから、自分を褒めてあげてもよいのかな、なんて。

(写真は、宮崎と羽田間の飛行機に乗る前のアトムです。俺らや航空会社を信頼しているから、カゴの中でもおとなしくしていた?)

2011年6月19日日曜日

長寿の遺伝子


「長寿の遺伝子は、昔の人はONだったけど、今の人はOFFなんだ。なんでだかわかる?」

梅雨の時期に、友人とあって教えてもらいました。梅雨の合間を見て、先日、家から車で30分の青島神宮へいってきました。青島は、中国のチンタオではありませんよ。宮崎の小島ですが、九州本島から歩いていけます。島には、青島神宮しかないようです。

青島神宮の奥には、細くて暗い元宮への通路があります。そこに入ると・・。

なんと、ジェラシックパークさながらのジャングルで、シダ植物が、神社を囲むといった・・南国なのに神社?という感じで、ミステリアスな雰囲気になります。当然、植物は、ひしめきあい、活き活きと生えていて、植物から精気をいただけるような感覚になります。


この精気を与える自然のエネルギーは、さんさんと輝く太陽です。しかし、先に紹介した、遺伝子の話を聞いて、それだけではないのかなと感じました。

5月の終わりから始まった、宮崎の梅雨は、東京の夏の夕立ちに相当するように思います。今、フラッシュたいた?と思わせるように、近くで光る鈍い雷と、バケツをひっくり返した雨量は、驚きます。。え、これが梅雨だとしたら、台風って・・?

宮崎の年間降水量は、東京の年間降水量の約2倍あるということで、青島のシダの精気を支えるのは、強烈な雨とも言えます。しかし、自分の茎が折れてしまうかもしれない程の強烈な雨で、それでも、植物が元気なのは、太陽のせいのみ?土壌が良いからのみ?でしょうか。

「長寿の遺伝子がオンになるのは、人が飢餓状態になったときだけなんだって。だから、ここ100年ぐらい、人類は、その遺伝子がオフなんだって。」

うーん。考えさせられます。

当然、長寿になるには、健康に食べていくことが必要だと思いますから、長寿になるためには、飢餓状態でなくてはならないというのは、矛盾しているようにも思えます。しかし、科学的な検証でそのことが確かめられたようです。人は、苦労したほうが、かえって、その人にとって、メリットになることがあるということ??

例えば、嵐のような雨を浴びることが、かえって、植物にとっては、メリットになることがあるのかも??

僕らは、あまりリスクを負わないように生活をして、それが、平穏な生活や安心した生活に大切だと思っています。触らぬ神にたたりなし・・は昔から言われていて、当然ともいえます。

僕自身は、サラリーマン生活を辞めてから、正直、平穏な生活はできなくなりました。直接、傷つけられたり、誰かを傷つけてしまったり。しかし、同時に、朝、興奮して目覚めることが増えました。「これなら、いける!」ということが思いついたときは、大きな幸福感を感じます。この幸福感とともに、4時ぐらいに起きてしまうことは、土曜に14時まで寝ていたサラリーマン時代には考えられないことです。宮崎の異常なぐらい元気なシダ植物のように、自分自身が、異常なぐらいにパワーを発揮することがあるような気がします。

つまり、ちょっと厳しいことに対面して、初めて、大きな幹が育つ・・・ということが、大いにあるように思います。逆に、そのように、ちょっとリスクを負って、厳しいことを体験すること以外に、自分にとっての大きな幹を育てる方法は、ないのかもしれません。

宮崎の空は、5分経つと、土砂降りの雨がパッと止んでしまい、青空をのぞかせる時もあります。事前に、土砂降りを知って、外出しないですむように予定を変えることも大事だと思いますが、たまには、土砂降りを、体いっぱいに、そのまま浴びてみて、太陽を感じてみる・・そんな心の余裕が必要なのかもしれません。

(写真は、家から3分!の公園でして、梅雨の緑の美しさを感じてもらえれば嬉しいです。アトムは、最近、長雨にストレスが増大!この後、僕に「なんで、今日も雨なの?」と吠えまくりました。その後、一人で走りまわって、体中びちゃびちゃに。お風呂に直行でした)

2011年6月5日日曜日

自分を裸にしてもらえる人

「そんな生徒には、舌をつかむんです」

事務所のロゴを作成したいと思っていた矢先、いつもの喫茶店を尋ねると、若くていいデザイナーがいるとのこと。後日、その喫茶店でお会いした彼のセリフ。見た目はレゲエ風。僕より10歳ぐらい?若いかな。ドラッカーの本の装丁、サッカーの中田英寿のイベントポスター等幅広く、全国で活躍している。

「僕、今、燃えているのが、バッファロー柔術なんです」

「え、なにそれ?」

「柔術の先生やっていて、子どもに教えているんです」

よくみると、体つきが・・いい。たぶん、お腹、縦にも横にも割れてる。。僕のように、お腹がポッコリ・・ということもまるでなく・・。

「やっぱり今の子供達が、“男の子“、になる瞬間って、大事だと思うんです。普段、優しい男の子が、組み合うと、目付きが変わるんですよね。」

確かに、勝ち負けは関係ないとか、競争社会はよくない!とか今のご時世、流行っているけど、人はそもそも競争する本能がありますよね。特に、男の子は、そういう気持ちが返って人を優しくさせたり。

「自分の試合よりも、彼らの試合のほうが緊張するんですよね。みんな試合だと緊張しているから、
痛くても無理しちゃって、怪我するときがあるんです。でも、無理しちゃう気持ちもわかるんですけど・・」


「中学生とか小学生とか、言うこときかなくて大変じゃない?」

「そういう場合は、舌をつかむんです」

「??」

「舌って、つかめるの?」

「はい。そうやって、舌をつかんで、子供を裸にさせないとダメなんです。」
「最初、柔術を習い始めた子って、自分は強いんだけど、柔術の技術を知らないから、負けたんだって言い訳するんです。本当は、技術を知らないで、負けたんじゃなくて、本来的に負けているのに。」
「なので、そういう子には、舌をつかむんです。そうすることによって、技術を知らないんじゃなくて、本来的に負けているということを、正直に思わせるんです。」

人が裸になることって、難しいですよね。

子供ならまだしも、大人になってから、舌を掴まれるように、自分を裸にしてもらえる瞬間って、あるでしょうか?大人の場合は、自分が無知であったり、不十分であったり、失礼であったり、ということを認識するのが、これに相当するかもしれません。

このように無知であることを意識したり、自分が間違っていることを指摘されるのは、いわば屈辱ですから、大人は、それを指摘される前に人間関係を避けたり、それが出ないように事前に回避することも多いですよね。

「一度、舌を掴んで素直になれば、その後は、子供の態度が全然違うんですよ」

わかる気がします。技術というテクニックではなく、取り組みの心構えが問題なのだ、と反省させる効果は絶大なのでしょう。

僕ら大人は、人に舌を掴まれた場合、その相手を非難したり、無関係を装ったりしがちなのではないかと思います。むしろ、それを受け入れられる人のほうが、少ないかも。しかし、その掴まれる瞬間をいただたくということは、日常において、極めて稀なことであり、この瞬間を見過ごすのは、その効果を考えると、勿体無いとも言えます。

この舌を掴まれる相手は、時に、上司であったり、お客さんであったり、自分の妻だったり、兄弟だったり、親だったりするでしょう。その人達に、素直に、舌を掴まれたことに、我々は感謝する余裕があるのでしょうか。

いやいや、そもそも、舌を掴んでもらえるほど、他人とコミュニケーションをとっていないならば、その他人は、あなたに言わなくてもいいやって、あなたの舌を掴もうと意識すらしないかもしれません。

「柔術は技術ではないんです。その人全てが出るんです。裸にならないと、」

彼の柔術は、柔術という技術ではなく、人の心構えを教わるような気がしました。

その後、彼と180CMの中学生の生徒さんは、名古屋の全国大会へむかいました。
がんばってねー。


あ・・でも、僕は、柔術は、、できないです。。


「コギさん、柔術やれば、絶対、おなかひっ込むよ!」 喫茶店の店長さんからの指摘。。。

いや、無理でしょう。いや、ムリムリ。 でもやれば、お腹、ひっこんで、割れるだろうな・・。

(上記のロゴは、宮崎のバッファロー柔術のロゴです。実際に戦わなくても、精神は負けません!って、言い訳??)

2011年5月23日月曜日

幸せの共有

僕は何もしていないのに、家の庭に咲いているバラです。花が大きくて枝がしなってしまいます。
幸せ、と感じたときの感情を具体化したような曲。

僕が初めて、ラフマニノフの交響曲第2番の第3楽章を聴いたときの感想です。クラッシックに興味がない方も、このブログを読む間、このリンクで(少なくとも、僕は涙が出ちゃう・・7分08秒までは・・)聴いてみてください。

スイスのベルン交響楽団のコントラバス奏者の首席奏者は、日本人なんです!そのかた石川滋さんは、未熟なコンバス奏者である私の大師匠でして、先日、ベルン交響楽団でこの曲を演奏しました。演奏に自らも深い感動を感じて、演奏家であることに幸せを感じたそうです。


今日の朝、一通のメールを着信。

件名は、「今病院です」。メールを送信した彼女は、僕の仕事仲間。

妊娠したあとに、外出禁止になり、長い間、自宅療養でした。

「陣痛きたから、今日、産まれます。」というメッセージ。

正直、僕にメールしている場合か!と思いましたが、仕事仲間なのに、わざわざメールをくれたことが、非常に嬉しかったです。出産の無事を祈りました。

その後、夕方に、件名は、「産まれました」のメールを着信。立派な男の子が産まれました(涙)。


「やりました、結構いい点です。」

今日、弁理士試験を、受験した友人からの電話。彼女は、僕同様に、何度も試験を受けていますが、最終合格に至らず。弁理士試験は、合格の持ち越しができるようになりましたが、彼女は、持ち越しが終了してしまい、今年は、一次試験からのやり直し。今日は、その一次試験の当日。例年の合格点を大きく上回る結果のよう。このまま、今年、最後まで、やりきってほしい(期待)。

「アトム、ななちゃんと友達になれて、よかったね。」

宮崎に来て、友だちができないアトム(ジャックラッセル犬)は、最近、川口市でいたころのような友だち付き合いをしていないせいか、下手に、噛むようなくせが・・。今日は、珍しく、宮崎市街で最も大きい川である大淀川沿いを散歩に。ここで出会った、柴犬のななちゃん(7ヶ月)と、フガフガ、言って、じゃれはじめ・・お友達に・・。アトム、良かったな(安心)。


僕らは、思いを共有できます。そんな、みんなの幸せを自分の幸せと感じて。

明日から僕もがんばるぞー!

2011年5月15日日曜日

すべてが公の場に

宮崎の近所のスーパーで売っていました。
“にんにく”ではありません。トマトです。
「よく、インターネットで自分の実名を公表できるよね?」

宮崎へ引っ越して、久しぶりに埼玉の自宅に帰った際に、姉から言われた一言です。

自分の身近な人で、実名をインターネットに公表している人は、まだあまりいないですよね。

僕は仕事がら、零細企業である自分の会社をアピールするのと、実際に会えない人に“小木智彦”である自分の近況を知ってもらいたいため、実名での公表をしています。

一度、公表したら、個人情報が、どんな人にも知られてしまいます。情報は公開したら、取り消すことができません。さらに、どんな悪い人が、自分のブログを読んでいるかわかりませんよね。その情報を利用して、変なメールを送ってきたり、ブログを潰すような嫌がらせをするかもしれません。

でも、なぜ、世の中の人は実名でブログをやったり、Facebookなどで実名での情報公開を行うのでしょうか?

自分のことを悪い人に知られて嫌がらせを受けるデメリットよりも、人と共有するメリットのほうが大きい、これが答えになっているように思います。

つまり、どんなに自分のことを誹謗中傷されても、その人達を相手にするのではなく、自分を支持してくれる人たちに、自分が大事だと思うメッセージを共有したい、という気持ちではないかと思います。

そもそも人は、知らせたがりなのだと思います。“いいな”と思ったら、自分の大好きな人に、その“いいな”を、自分の大事な人はもとより、不特定多数の人に、単純に知らせたいのだと思います。

逆に、“よくない“ということを、不特定多数と共有することは、どうでしょうか?

愚痴をいって、すっきりしたいときは、話を聞いてくれるありがたい友人一人に聞いてもらえればよいだけで、ブログ等の不特定多数の人と共有すべきことではありません。

でも、ストレスが溜まり過ぎだったり、そのありがたい友人すらいない場合は・・・、ネットで、“えいや”と、公表してしまい、人を中傷するコメントになったりすると思います。しかし、このようなコメントは、人が健康的であれば、あまり、一般的ではないように思います。といいますのも、多くの健康的な人が、一度、愚痴のようなコメントを仮にしてしまっても、あとで、ちょっと後悔して、次からは、前向きなコメントをするようにしよう・・と考えることも多々あるように思います。

人々が、このように行動すると、ブログやFacebook等の世界は、どういう世界になるのでしょうか?

私は、ポジティブな世界が築けるように思います。

人間は、一般に、健康な精神を持ち得ています。基本的には、美味しい料理を食べて、楽しい話を友人や仲間とすることに幸せを感じます。その時に話す話題は、相手が喜んだり、暖かい気持ちになるような話だと思います。この気持ちを人が持ち続けているのならば、ネットの世界は、明るく前向きな意見が集まるところになるように思います。

情報の発信手が得るメリットは計り知れません。例えば、僕は、このブログにより数多くの方と、絆を結び、確かめ合うことができました。

絆ができたら儲かりますか?

と言う人もいました。

もちろん、絆は、プライスレスです。

(写真は、近所(宮崎市)のスーパーで売っていたトマトなんです。しかも、売っていました。こんな元気でパワーが溢れているトマトを食べれば、誰でも前向きになれる!?)

2011年4月24日日曜日

専門家のやり甲斐

宮崎の並木通りは、くすの木が最高です!

「パリも、宮崎も、そんなに変わらないってことが、パリでわかったので、宮崎に帰ってきました。」

宮崎県の県庁は、昨年まで観光スポットとして超有名でした。しかし、今では、知事も変わり、すっかり通りのざわめきも落ち着いています。この県庁沿いにある、くすのきの並木道は、おそらく県で一番の美しい並木道。空が高い宮崎の日光を浴びた新緑は、表参道の通りに負けるはずがない。

並木道沿いに、ひっそりとある2階のカフェ。宮崎に来て、最初に入った喫茶店が、この喫茶店でした。

2階からは、直接、くすの木の緑が飛び込んできて、木漏れ日が日常を忘れさせます。


「この緑がある景色は、いつ飽きるかなって、思っていたんですけど、全然、あきないんですよね。」


手際が良い店長が一人で切り盛りしているお店は、カウンタ席が6席ほどの、こだわりの喫茶店。

アレルギー体質の人でも楽しめるランチやケーキを、無農薬で提供されています。

「日本は、特に添加物大国なんです。無農薬とか、添加物がない食事って、アレルギー体質の方だけでなく、普通の方にとっても、当然、良いものなのに、アレルギーとか健康に問題がある人ばかりが食べに来るのって、勿体無い気がするんですよね。」

確かにそうですよね。そもそも健康によい食事を、普通の人の通常の料理にすべきですよね。
特に、僕の場合、結構、いい感じ?に、お腹がポッコリ出ているのですが・・・・それって、食べたいと思う欲求が悪いと思っていましたが・・。
いやいや、食べたいと思う欲求は正常で、食事の中に入っている、保存料だの着色料によって、あなたのお腹は、膨らんでいるんですよ・・と考えれば、お腹いっぱい食べてもいいの?ということも考えられますよね。。ちょっと、都合がいい??

この店長さんが通う美容師さんが、なんと、パリコレに出たことがあるらしく(パリコレって、たぶん、パリコレクションだと思う)、かなり腕のあるヘアーリストさんのようで、彼のセリフが、冒頭のセリフです。

その方によると、「パリコレのキャリアがあれば、パリとか東京で派手な仕事をすることが出来るんだけど、パリとか東京に居る女性は、既に結構、いろいろ知っているから、ぼくが髪型とかのアドバイスする必要があまり無いんですよね。それよりも、情報がなくて、髪型をあまり知らない地元の女性にアドバイスできたほうが、僕の仕事としては、やり甲斐があると思ったんですよ。」

この考え方って、何の分野でもその道の専門家にとっては、大事な考え方かもしれませんよね。

例えば、東京で仕事をしていれば、「東京で〇〇の仕事やっているなんてー」と賞賛されることがあります。「えー、六本木で美容院やっているのー!すごーい。」みたいなリアクション。若干、失礼ですが、宮崎の橘通りで美容院やっているのとは地名のブランドが違います。つまり、サービスの所在地がブランドになって、質がいい!と思わせ、サービス提供者のやり甲斐にもなる・・。

しかしながら、彼の指摘によれば、既に、六本木の女性は、情報もたくさんあり、どうやったら自分が綺麗に見えるのか、ある程度知っていることが多いと。つまり、私、頬がちょっと大きいから、ここが少し隠れるように、口元まで髪を残してください・・みたいな、具体的な指摘があるのでしょう。この場合は、美容師は、その長さに髪を切りさえすればよく、結果として、きれいになるか否かは問われません。確かに、これだとやり甲斐としては、物足りないかも。

一方、宮崎にいて、どうやったら綺麗になれるか全くわからないけど、流行りの女性誌をもってきて、「私も蝦ちゃんみたいに綺麗にしてください!」と言ってくる宮崎の橘通りの女子高生を相手にする美容師さんは、髪型以外の知識も要求され、高度な技術が要求されますが、ヘアスタイリストの腕の見せ所とも言えます。その娘の良いところを引き出すにはどうしたら良いか考えて、ハサミを入れるのでしょう。

ここで、仮に、美の絶対的基準というものがあるならば、ひょっとしたら、六本木で髪を切ってもらった人と、宮崎で髪を切ってもらった人では、六本木で髪を切ってもらった人のほうが綺麗かもしれません。なぜなら、美に対する基本的なレベルがこの女性のほうが高いと考えられるからです。

しかし、このヘアスタイリストがその娘のために頑張って髪を切れば、六本木の女性よりも、宮崎の女性のほうが喜びは大きいでしょう。つまり、彼女は、全く自分では想像できなかった髪型を実現してもらうことで、六本木の女性よりも、綺麗になったという感じ方の差が大きいと思われるからです。

こういうヘアスタイリストさんは、きっと、彼女の青春にとって一生忘れられなくなるのでしょう。これは、専門家にとって、最高のサービスではないでしょうか?

つまり、専門家というのは、自分の技術で、その技術を施す前後での差で、仕事のやり甲斐を感じるのかもしれません。


「ドトールみたいなコーヒーでお願いします」

どんなコーヒーが良いか聞かれて、ちょっと返答に困って、店長に頼んでみる。

「ドトールのブレンドですか?アメリカンですか?」

すごいな。。味、覚えているの・・。

「あ、ブレンドで」

出てきたコーヒーは、ドトールのブレンド風の、さらに品の良い、コーヒーでした。

こういう驚きを顧客に感じさせる専門家が、本当の専門家なのかもしれません。

(写真は、新緑が眩しい喫茶店(vis a vis Cafe)からの景色。東京の方も、宮崎に来たときは、是非。)


2011年4月16日土曜日

支援者が被災者にできること

被災されたご家族のワンちゃんです
「海から15メートルのところに、新築の家を7年前に建てて住んでいました。家が流されたのを、この目で見たわけではないので、まだ、家がないことを信じられないんです。私たちのところは、地震、津波、放射能の三重苦でした。」

今回の震災で、福島の浪江町から埼玉に避難してきて、お知り合いになった6人家族のお母さんの言葉です。

少しでも、このご家族に対して、何かできることはないか?と考えますよね。

イチローや孫社長が、高額の寄付をしたことが話題になっています。もちろん、僕らはそんな額は払えませんし、有難いことだと思います。

ですが、被災者のかたが、今、ほしいものは、本当に資金や物なのでしょうか?



僕は、彼らが今、最も必要なものは、「共感」ではないかと感じました。


何はともあれ、彼らの話を聞いてあげることが、全ての始まりかなと思いました。


恥ずかしながら僕は、当初、今回の震災で、お店などに設けられた寄付金の箱にお金を少し入れていながら、家に帰ると、ニュースで震災のことをやっていると、また、震災か・・と思っていました。

ですが、このご家族の話を聞いた後に、ニュースで大熊町の話題になると、ご家族のお母さんのご実家だ!と気づいて、ニュースに釘付けになりました。僕も、いつの間にか当事者になっているんです。


お金は、被災者の方に、直接、何も出来ない人が行う支援だと思います。もちろん、否定するわけではありません。

僕自身は、今回の震災では、当初、物をあげることや、施しを与えることが、支援だと思っていました。でも、今は、ちょっと考え方が変わりました。お金や物も渡すことも大事かもしれませんが、その手前で、被災者と支援する人とで気持ちを共有すること、でも、お互いに大変大きな効果があるように思いました。

何よりも、僕らが被災者に支援した結果として望むべき効果は、被災者の方が、被災されて、ひどいことになっても、これからは、前向きに、自発的に、生活を取り戻す行動を起こしてもらうことではないかと思います。

そのためには、もちろん、物や資金も必要ですが、まず、被災者の方が、前向きな気持ちになるように、「共感」という手段で、精神的なサポートをする、というのが、最初のスタートとして、大事ではないかと思います。

天皇、皇后が腰を落として、被災者ひとりひとりに、直接、声をかけられていました。彼らは、お金を寄付することができないのかもしれませんが、共感というのが大事ではないかと判断されての行動ではないかと感じました。

(写真は、ちょっと腕白な犬のムクちゃん(まだ、4ヶ月!)です。人懐っこくて、ATOMのライバル?です)。

2011年3月21日月曜日

妻のキャリア

宮崎神宮(2011.3.13)
「私、宮崎へ行ってもいいかな」

ひと月前に、妻から言われた言葉です。

あ、いや、理由もなく別居というわけではありません。

彼女は、大学院を卒業してから、いくつかの大学や専門学校でパートの講師をしています。

大学の教員は、僕ら一般人が思っているほど、恵まれた生活をしていません。

その理由の一つとして、いくら大学の先生が努力しても、賃金の向上や雇用の安定となる、正当な評価が得られるとは限らないからです。

例えば、大学の先生が、テストの採点で、進研ゼミ(もうない?)赤ペン先生並の丁寧な添削を行っても、“みみずのはう”ような字(僕の字のかんじ・・)で、添削しても、先生の評価が大幅に変わることも、給料が変わることもありません。

彼女は、夜中から朝まで、僕と犬の世話が終わった後に、何十枚もの添削を丁寧にやっていました。
しかし、常勤での教員職はみつからない。

そんな生活を、ここ2年ぐらいしていたところ、九州の大学で、キャリアアップにつながる勤務先が決まりそうだということ。


一方、僕は、東京での会社がまあ、そこそこ、安定してきて、4月からさらに、東京で事務所を開業しようと考えていました。また、先日のブログでも書いたように、東京の大学院へ行って、さらなる経営の勉強をしようかなと考えていました。僕自身も関東を離れて生活したことはありません。

その矢先での、彼女の発言。。


どうする、おれ?


自分は、昨年の夏に会社を立ち上げましたが、勤めは自宅で、自分の仕事柄、平日でも家で仕事をすることが多く、メールやネット以外は、かみさんに相談することが多くなりました。
ですので、家族との関係の安定が、仕事の安定の一部であったことは間違いないことを実感していました。これが、かみさんがいなくなるとどうなるか?

いやいや、かみさんの方だって、全く住んだことのない九州に、一人乗り込んで、俺や犬のアトムがいないで、毎日が順調におくれるのか?

おそらく、僕もかみさんも、離れていても、生活はできるでしょう。

でも、僕らは、単に、経済的な理由やキャリアのために生活するのではなく、精神的に豊かに健康に、共に歩みながら過ごすことが重要であると思います。そういうわけで、かみさんとの激しい議論の末、お互いに離れないで生活することが大事ではないかと話し合いました。

「僕も宮崎に、行ってみるか。まあ、仕事はなんとかなるでしょう。 」

と、一歩、踏み出す。

これに対する社会の反応は・・。

「え、奥さんと一緒に行くの!仕事どうすんの!」

 かみさんに対しも、

「え、旦那さんも宮崎に来るんですか!大丈夫ですか?」

それが、一般的な反応ですよね。

つまり、旦那さんは、ひもっぽい感じに捉えられているかな。。

運良く、僕のお客さんは、いずれも九州出身で、快く、自分の遠距離での自宅勤務を認めていただきました。

お客様に大変、感謝するとともに、離れていても、仕事を受注いただけるほど、自分に強さがあることを感じました。

つまり、かみさんについて、九州に行けることは、自分に力があるから行けるのではないかと考えるようになりました。遠距離でも僕に仕事を出してくれるほどに、僕が力を持っていなければ、今回のように、仕事を継続して受注することはできません。

そんなことに気がつき、妻と一緒に九州へ行くことに自信がもててきました。

来月、胸をはって、宮崎へ引っ越します。


(写真は、宮崎神宮です。大きいし、明治神宮と違って人が少ないので、気持ちが落ち着きます。これから、よろしくお願いしますと気持ちを込めて。)



2011年3月9日水曜日

3つの坂





「人生には、3つの坂があります。 

一つは、上り坂、もうひとつは、下り坂。

そして、もう一つは・・。」

先日、英国領事館で人事を担当されている方の話を聞きました。

その方が、上の絵をプロジェクターに投写しての説明。

「画像にある絵は、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」という絵です。なんと北斎は、1999年雑誌『ライフ』の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に日本人でただ一人、ランクインしました。ちょっと意外ですよね。 」確かに、僕も、意外に思いました。松下幸之助とか本田宗一郎とか想像しますが・・。

「で、この絵ですが、富士山も綺麗ですが、こんな大きな波に対して、船を先導する船頭さんが、小さく書かれています。この船頭さんが、思っていることは、何だと思いますか?」


「まさか!こんな大きな波が来るとは・・。

・・・かもしれませんよね。」

もうひとつの、坂(さか)、とは、まさか!だったのです。

話が、うまいですよね。。


僕自身も、今、大きな、“まさか”、が来ました。


実は、昨年より、今年の春から勉強したいと思いまして、大学院へ行こうと思いました。運良く合格できたのですが、入学の前に、これよりもよっぽど価値がある、まさかに出会い、その、まさかの道を選ぶことを決意し、大学院は今度の機会にしました。

僕らには、まさか、が来ることは予想ができません。

人が、人生に夢を持って、次のステップを考えて、夢を持って、計画をたてることは、とても大切だと思います。計画があると、まさか、に対してのショックは大きいです。でも、計画がなくて、まさか、に、ただ従うよりも、人生設計としては、ポジティブだと思います。

にもかかわらず、その計画を無くしてしまう、まさか、が来たときに、どうしましょう?

船頭さんは、ひょっとしら、富士山のふもとへの船旅を夕方までに到着することを計画して・・、大きな波と遭遇・・。これは、船頭さんにとって、マイナスでしかないのでしょうか?

おそらく、この波を乗り越えれば、ただ富士山のふもとまで行くよりも、部下や仲間に大きな勇気を認められて、大きな信頼が得られるかもしれません。

人生は少し退屈なところもあります。

予想外の、まさか、が起きて、ちょっといつもと違う勇気を出せたり、、他人にいつもと違う愛情をかけられたりするかもしれません。


僕は、計画を通すのではなく、まさか、の選択を選ぶことに、何故か、今、自信を感じています。

まさかの内容は、 もう少し落ち着いてから、お話しさせてください。。

(写真は、葛飾北斎の絵ですが、著作権が切れていますので、パブロックドメインとして使用させていただいています)


2011年2月19日土曜日

会社の社は、社会の社

「骨粗鬆症の患者さんなのに、薬を受け取るところまで、患者さんを歩かせるのは、薬局として良くないと思ったんです。」

九州と北陸に展開する、ライフ薬局は、調剤薬局ですが、薬を受け取るカウンターがありません。そこで働く薬剤師の先生から聞きました。

薬局内には、カフェのようなソファが置いてあり、 薬剤師さんが、直接、そのソファに座っている患者さんひとりひとりに、お薬を渡しに行きます。

薬剤師さんが、患者さんに、お薬を渡しに行って、お薬の説明をすることは、仕事の能率が落ちると思われます。つまり、薬剤師さんは、薬を調合する場所と、薬の受け渡し場所だけ移動することでサービスが終わるのならば、経営効率が上がります。 これに反して、患者さんに薬を渡しに行くためには、当然、患者さんのもとに、移動する時間がかかりますし、患者さんの顔も覚えていなくてはいけません。

先日のニュースで、いわゆる社会起業家が、社会を変えるぞ!と、NPO法人を立ち上げ、その後しばらくすると、活動が不明になり、終いには放置してしまうということが、頻繁に各地で起こっているという話を聞きました。つまり、若干、流行だった社会起業家が、NPO法人を立ち上げて、その意志が途絶え、ほっぽらかしにしてしまう・・ということです。
確かに、バブル後、リーマンショック後の日本経済ですと、資本主義に嫌気がさし、大事なのは、お金ではなく、社会貢献だ!という気持ちも理解できます。

しかし、社会起業家を貫けるほど、我々世代の人間は、美しい意志を持っていないのでは?と、私は思います。

自分の利益なくして、社会を変えようとすることを、一生の仕事とするという謙虚なことを、この豊かな日本に生まれてきた裕福な僕らが、貫けるのでしょうか?

残念ながら、僕はこれに関しては、否定的です。僕らは、ナイチンゲールやマザーテレサには、残念ながらなれません。

でも、僕らにもできることはあるはず。

利益をある程度追求しても良い。だけど、自分がお金よりも大事だと思うことは譲らない。

この考えならどうでしょう?

僕らでもできるように思いませんか?


薬剤師さんが、患者さんの所まで薬を持っていく、というのは、ライフ薬局の社長さんの判断で、経営効率を表面的に落としても、患者にとって、大事なことだから、やる、と判断されているのではないかと思います。

たかが、患者のところに薬を持っていくだけかもしれません。しかし、患者さんに対する優しさを実行するというのは、社会に対して、小さなメッセージを出すことなのかと思います。このことを、小さな社会貢献であると言うのは、いいすぎでしょうか?

もちろん、会社は、その存在により、社会に雇用を生み、経済の需要と供給の歯車として機能しますから、それだけで社会的貢献があります。しかし、会社が、道徳的な社会への貢献を、自社の利益に優先することはあるでしょうか?

常に、道徳的な社会貢献を優先することはないかもしれません。でも、利益より社会貢献を優先する会社は、社会から得難い信頼を得るように思います。


わざわざ、大上段に構えて、社会起業家になる必要はないのではないでしょうか。正直に、利益を目的として行動し、この会社の活動の中で、いや、これはお金よりも大事だよ、ということを社会に発信する。これが今の僕らに出来る、ささやかながら、精一杯できる社会へのメッセージであり、これこそある意味、「社会起業家」ならぬ、「小さな社会貢献家」なのではないでしょうか?


大企業のように、企業の社会的責任(CSR)!として、環境活動に協力したり、アフリカに募金することが、僕ら個人や、個人事業主、中小企業はできないかもしれません。でも、今、僕らの周りに起こっていることで、僕らが社会に貢献するメッセージを発信する機会があるかもしれませんよね。

会社は、利益を追いかける団体だ、といわれています。

しかし、ポリシーを持って会社を経営することが、社会に大きく貢献するということを、日本社会で確認したいですね。

(写真は、僕の一生で一番贅沢なカフェ?での写真です。フランスのモンサンミッシェルです。遠くにかすかに見えます。)

(「散歩よんぽ」もお陰さまで、一周年を無事、迎えました。様々なお立場の方から、感想をいただくことで、大変、励みになりました。皆様のおかげで、ここまで続けることができました。また、散歩よんぽがきっかけで、ブログを始められた方もいて、大変、嬉しく思います。今週は、初めて、一週間の読者が100人を超えました!これからも何卒、宜しくお願いします。いいネタを書くように励みます。。ちょっとプレッシャー?)

2011年2月14日月曜日

大事なサービス

「ここのパンは、うまいから帰りに買って帰るといいよ。」


天気のよい昨日、築地の病院に入院している伯父さんを訪れました。
お台場、勝どき、晴海そして、千葉の山々が一望できる病院の景色は、前向きな会話を生み出すのが難しい難病の患者と、その家族にとっては、病気を回復させる一役をになっている気がしました。


伯父さんは、僕に浅草での酒の飲み方を教えてくれた大事な方でして、幸い、通常の食事ができるまで回復されていました。

ここは、病院内でパンを焼いているから、うまいんだよね、とのこと。

病院が出すご飯は、おいしい?と聞くと、患者さんに失礼になるぐらい、薄味で残念な場合が多いですよね。確かに、パンの食感を楽しむことは、美味しさを感じる大切な一つの要素ですから、薄味をカバーできるのかもしれません。

美味しいパンを、朝一番の食事として、患者さんが食べれることは、病気の回復に一役をになっているのかなと思います。帰りに、売店で美味しそうなパンが並んでいるのを見ました。

先日、医療経営に詳しい先生からお話を聞かせていただく機会がありました。

病院では、本来の業務である医療の収入に加えて、医業外収益というのがありまして、これが、結構、ばかにならないほどの収益になるということ。

医業外収益って、何だと思いますか?と、先生。

病院の売店などの売上なんです。

病院の売店は、本来の医業ではありませんが、場所がら、確実に病院の売上となりますね。ちょっとぐらい高い飲み物でも、その場所以外、つまり、病院に出て買いに行く気になれませんから、どうしても、同じ商品の提供でも、その場所のみでの提供が可能であり、高値で販売させることが可能です。


しかし、売上を伸ばすために、本来の医療よりも、医業外収益を増やすことは、本末転倒のおそれもありますね。例えば、売店のパンを買いに、行列ができていて、評判のパン屋さんになるとか・・。
それは、病院がおかしな方向に行ってしまうので、本来的には、病院は、自分たちにとって、一番大事なサービスを意識しつつ、美味しいパンを提供することで、患者の健康を補佐するサービスも付随的に大事だ、と考えることが大切なのでしょう。おそらく、この病院が、千葉の山々まで一望できる場所に建っているのも、健康を補佐する付随的なサービスの一つでしょう。

「時間潰すのが、やっぱり大変なんだよね。
帰りに、本の貸し出しボックスに、文庫があれば、持ってきてくれないか?」

と伯父さんに頼まれ、貸し出しボックスまで足を運ぶ。

残念ながら、文庫は、全て貸出中であった。

そのことを伯父さんに伝えると残念そう。


病院が、公共の図書館と連携したり、ブックオフのような中古本販売サービスも、健康の補佐サービスとして大事かもしれません。また、今、はやりの電子書籍端末を貸しだすというのも、年配の方がITサービスに対する新たな発見があり、元気になってもらえるかもしれませんね。

僕のおすすめ本を持って、次回、伯父さんを訪れようと思います。

(写真:ベランダの梅が、いい感じです。)

2011年1月29日土曜日

古河庭園の場



ブラタモリ(NHKの番組)によると、巣鴨の地蔵通りは、旧中山道だったらしいです。
今じゃ、狭い商店街で、とても、中山道のような大通りであったとは、想像もできないですね。

というのも、この道は、全く傾斜がなかったため、中山道が作られたということ。
このあたりは、巣鴨近辺では稀な平坦な場所のようで、たしかに、ちょっと東に行った染井霊園の方は傾斜が激しいです。

道が平坦ですから、お年寄りにも人気?ということなのでしょうか。


その巣鴨から、東へ駒込方面へ行くと、ちょっと盛り上がった台地にぶつかります。これが、古河庭園という公園だそうです。

古河庭園は、バラ園などで有名なのですが、ちょっと土地が高いところに西洋のイングリッシュガーデンがあり、そこから、低地の池に向かって、日本庭園が広がります。

イングリッシュガーデンから日本庭園の間には、イントロのために、つつじの空間を抜けます。 この西洋と和の融合と、その間の空間づくりは、不自然さがなく、見事なものです。

ちょっと高いところにある欧米の西洋と、低いところにある日本の和、が融合した場。

ちょっと日本よりも立場が高い欧米は素晴らしい良さがある。僕ら日本の固有の良さは、低いところにあるけど、負けていねいよね。そんなメッセージを発しているかもしれませんね。

 それでは、今の僕たちは、ちょっと高いところにある日本の和と、低いところにある中国、インドを融合した場を作ることはできるのでしょうか。日本の固有の良さを再認識しつつ、他の国の良さを尊重し、融合した場を、古河庭園のように、知的な場で、表現できればよいですね。

(今日、ベランダの梅が咲きました!12月は葉が全くなくなって元気がなかったので、嬉しい・・。裸木のときに一生懸命頑張って、結果残したね!写真がいまいちですみません。。)

2011年1月22日土曜日

中国に抜かれた日本 まだまだ!


日本がGDPで中国に抜かれましたね。

2,3年前、居酒屋さんで注文を頼むときに、店員さんが日本人であるか中国人であるかは、店員さんの注文を受ける態度でわかったように思います。つまり、日本人であれば、きめ細かに対応いただけるのですが、中国の方だと、なかなか空気が読めなくて・・。今は、店員さんの態度では、ほとんど、日本人なのか、中国人なのかは、わからず、喋り方のイントネーションか、ネームプレートを見て、やっと気がつく感じでしょうか。

現在、日本の3K(きたない、きつい、カッコ悪い)の仕事(すみません、居酒屋の店員さんのお仕事がこれに該当するというわけではないのですが・・。)は、中国の方等アジアの方が多いですね。

つまり、僕らは、日本人にとって、いわゆる“ちょっと大変な仕事”を、現在、中国人にお願いしているわけです。

一方、現在、北海道のニセコでは、中国人による別荘の買収が進んでいるらしく、ニセコが中国に侵食されている・・とも言われているようです。バブル崩壊後は、日本人が購入することはできなくなりましたから、やむを得ません。しかし、実際には、投資対象だけであり、別荘が空洞化しているという一面もあるようです。いずれにしても、中国マネーは強いですよね。

日本人から、“ちょっときつい仕事”を担わされている中国人と、日本人がとても手が出ない物件に投資する中国人と・・・。

つまり、中国は、二極化していて、その間に、我々のような普通の日本人が入る・・という関係・・?そういう意味では、日本は、中流の社会で、極端ではない社会かも?

「日本は、平等でルールを守る。信頼できる人が多い。」

今日お会いした、日本で長年働く、中国の知識人の方が、何度も僕に言ってくれました。

日本は、中国にGDPで抜かれました。もはや、中国を追い越すことは異常事態がない限り、困難でしょう。そして、日本の政治も外交もちょっと自信がないですよね。

でも、そもそも、僕ら日本人や日本の社会が胸をはれることは、もう既に、自然と存在していて、空気のように当たり前で、長所だから気がつかない・・と考えることもできるのではないでしょうか?
そんな視点を持てることこそ、日本人が日本人を客観的に見ることになるし、グローバルな視点で日本人を評価できることかもしれません。ちょっと、楽天的ですかね。

(写真は、鴨川シーワールドのセイウチです。セイウチは、寝転がることが人間を癒す長所であるとを知らないでしょう。でも、セイウチは寝てるだけで大人気。そんなに焦らなくても、誰でも、自然と長所があるのかも?)

2011年1月16日日曜日

初任給 月給8,700円


開示してしまうと、親父には、怒られるのかもしれないのですが、僕の親父の初任給(月給)は、8,700円でした。年末、実家に帰って、昔の書類を見ていた際に、彼の初任給の支払い用紙を見せてもらいました。

親父は、高校を卒業して、九州から東京に上京し、当時公営の会社に就職しました。彼は、定年近くの40年以上その会社で働きました。ですので、8700円の給料は、100倍まではいかないかもしれませんが、80倍近くには、少なくともなったでしょう。

今日は、60歳以上の私の叔父さん、叔母さん総勢10名で、7,8時間、飲んでいました。叔父さん、叔母さんからは、(多分、毎年?のように)戦後の貧しい中、兄弟で、食事を取りあいした話を聞きます。当然、現在から比べると、物質的に当時が大変だったという話です。
今の世の中は、いいよねー・・、でも、なんか、若い人は、先行きが不安だよねー。という話に。

僕らの時は、目標がはっきりしていたよね。働きすぎで当たり前だったし。
アメリカに追い付け、追い越せって、はっきりした目標があったから。
今は、やれ、経済だ、やれ、イクメン(育児する男)だって、価値が多様化しちゃって、君らだって(僕に向かって)、なにしていいか、わからないよね?

戦後まもなく、海外営業をしていた叔父さんの一言でした。

8700円の給料が、80倍になるなら、経済的な豊かさの喜びは、生きる喜びや働き続ける喜びになるのかなと想像できます。40年間という長い期間であっても、80倍ですから・・。

この経済的な“豊かさ”の持続的成長は、我々の親父の世代を40年間働き続けさせるエネルギーに変えたのだと思います。

もちろん、僕らの世代では、給料は、80倍はおろか、8倍も・・難しいでしょうか、おそらく、良くて・・1.8倍でしょうかね・・・。

しかし、僕らも普通に、40年間近く、働き続けなくてはいけません。

日本社会は、経済的によくなることは難しいですよね。
そうすると、どうしたらいいか?

40年間、数種類の“豊かさ”を、増やしていけば良いのではないでしょうか。

つまり、給料が上がるという経済的な豊かさは、ちょっとしか増えなくても、他に、子供の面倒を見て、家族との豊かさが2倍になったり、自分自身、今まで逃げていた仕事をやりきって、自分の人間性の豊かさが3倍になったり・・。

むしろ、経済的な“豊かさ”ではない、自分に感じられる“豊かさ”を見つけられる人が、これからの時代は、仕事を頑張り続けられるのかもしれません。

この60歳以上の兄弟姉妹が、こうしてお正月になると、自分たちの親のお墓参りとともに、何十年も毎年集まり続けることも、大きな“豊かさ”ですよね。

(写真は、今日のベランダの梅の蕾です。彼らは眠っているように見えますが、春の準備で今は大忙しです。人の仕事もそうです。認められるまで(春の前の冬)が一番、大変ですね。梅の開花が楽しみ。)

2011年1月1日土曜日

2011年 Happy New Year













明けまして、おめでとうございます。

今年も、「散歩よんぽ」をよろしくお願いします。

昨年、始めた「散歩よんぽ」ですが、お陰さまで、まだ、続けることが出来ています。。
これも、ブログを見ていただいた方に、激励をいただいているからだと痛感しております。
今年も、散歩よんぽを、何卒よろしくお願いします。

さて、私ごとですが、昨年の夏に会社を立ち上げまして、ホームページがあります。
こちらに、会社のブログのページも作成しました。

「散歩よんぽ」のページが更新されていない場合には、会社のブログの方も遊びに来ていただけると幸いです。

また今年も、よろしくお願いします。