2011年6月19日日曜日

長寿の遺伝子


「長寿の遺伝子は、昔の人はONだったけど、今の人はOFFなんだ。なんでだかわかる?」

梅雨の時期に、友人とあって教えてもらいました。梅雨の合間を見て、先日、家から車で30分の青島神宮へいってきました。青島は、中国のチンタオではありませんよ。宮崎の小島ですが、九州本島から歩いていけます。島には、青島神宮しかないようです。

青島神宮の奥には、細くて暗い元宮への通路があります。そこに入ると・・。

なんと、ジェラシックパークさながらのジャングルで、シダ植物が、神社を囲むといった・・南国なのに神社?という感じで、ミステリアスな雰囲気になります。当然、植物は、ひしめきあい、活き活きと生えていて、植物から精気をいただけるような感覚になります。


この精気を与える自然のエネルギーは、さんさんと輝く太陽です。しかし、先に紹介した、遺伝子の話を聞いて、それだけではないのかなと感じました。

5月の終わりから始まった、宮崎の梅雨は、東京の夏の夕立ちに相当するように思います。今、フラッシュたいた?と思わせるように、近くで光る鈍い雷と、バケツをひっくり返した雨量は、驚きます。。え、これが梅雨だとしたら、台風って・・?

宮崎の年間降水量は、東京の年間降水量の約2倍あるということで、青島のシダの精気を支えるのは、強烈な雨とも言えます。しかし、自分の茎が折れてしまうかもしれない程の強烈な雨で、それでも、植物が元気なのは、太陽のせいのみ?土壌が良いからのみ?でしょうか。

「長寿の遺伝子がオンになるのは、人が飢餓状態になったときだけなんだって。だから、ここ100年ぐらい、人類は、その遺伝子がオフなんだって。」

うーん。考えさせられます。

当然、長寿になるには、健康に食べていくことが必要だと思いますから、長寿になるためには、飢餓状態でなくてはならないというのは、矛盾しているようにも思えます。しかし、科学的な検証でそのことが確かめられたようです。人は、苦労したほうが、かえって、その人にとって、メリットになることがあるということ??

例えば、嵐のような雨を浴びることが、かえって、植物にとっては、メリットになることがあるのかも??

僕らは、あまりリスクを負わないように生活をして、それが、平穏な生活や安心した生活に大切だと思っています。触らぬ神にたたりなし・・は昔から言われていて、当然ともいえます。

僕自身は、サラリーマン生活を辞めてから、正直、平穏な生活はできなくなりました。直接、傷つけられたり、誰かを傷つけてしまったり。しかし、同時に、朝、興奮して目覚めることが増えました。「これなら、いける!」ということが思いついたときは、大きな幸福感を感じます。この幸福感とともに、4時ぐらいに起きてしまうことは、土曜に14時まで寝ていたサラリーマン時代には考えられないことです。宮崎の異常なぐらい元気なシダ植物のように、自分自身が、異常なぐらいにパワーを発揮することがあるような気がします。

つまり、ちょっと厳しいことに対面して、初めて、大きな幹が育つ・・・ということが、大いにあるように思います。逆に、そのように、ちょっとリスクを負って、厳しいことを体験すること以外に、自分にとっての大きな幹を育てる方法は、ないのかもしれません。

宮崎の空は、5分経つと、土砂降りの雨がパッと止んでしまい、青空をのぞかせる時もあります。事前に、土砂降りを知って、外出しないですむように予定を変えることも大事だと思いますが、たまには、土砂降りを、体いっぱいに、そのまま浴びてみて、太陽を感じてみる・・そんな心の余裕が必要なのかもしれません。

(写真は、家から3分!の公園でして、梅雨の緑の美しさを感じてもらえれば嬉しいです。アトムは、最近、長雨にストレスが増大!この後、僕に「なんで、今日も雨なの?」と吠えまくりました。その後、一人で走りまわって、体中びちゃびちゃに。お風呂に直行でした)

2011年6月5日日曜日

自分を裸にしてもらえる人

「そんな生徒には、舌をつかむんです」

事務所のロゴを作成したいと思っていた矢先、いつもの喫茶店を尋ねると、若くていいデザイナーがいるとのこと。後日、その喫茶店でお会いした彼のセリフ。見た目はレゲエ風。僕より10歳ぐらい?若いかな。ドラッカーの本の装丁、サッカーの中田英寿のイベントポスター等幅広く、全国で活躍している。

「僕、今、燃えているのが、バッファロー柔術なんです」

「え、なにそれ?」

「柔術の先生やっていて、子どもに教えているんです」

よくみると、体つきが・・いい。たぶん、お腹、縦にも横にも割れてる。。僕のように、お腹がポッコリ・・ということもまるでなく・・。

「やっぱり今の子供達が、“男の子“、になる瞬間って、大事だと思うんです。普段、優しい男の子が、組み合うと、目付きが変わるんですよね。」

確かに、勝ち負けは関係ないとか、競争社会はよくない!とか今のご時世、流行っているけど、人はそもそも競争する本能がありますよね。特に、男の子は、そういう気持ちが返って人を優しくさせたり。

「自分の試合よりも、彼らの試合のほうが緊張するんですよね。みんな試合だと緊張しているから、
痛くても無理しちゃって、怪我するときがあるんです。でも、無理しちゃう気持ちもわかるんですけど・・」


「中学生とか小学生とか、言うこときかなくて大変じゃない?」

「そういう場合は、舌をつかむんです」

「??」

「舌って、つかめるの?」

「はい。そうやって、舌をつかんで、子供を裸にさせないとダメなんです。」
「最初、柔術を習い始めた子って、自分は強いんだけど、柔術の技術を知らないから、負けたんだって言い訳するんです。本当は、技術を知らないで、負けたんじゃなくて、本来的に負けているのに。」
「なので、そういう子には、舌をつかむんです。そうすることによって、技術を知らないんじゃなくて、本来的に負けているということを、正直に思わせるんです。」

人が裸になることって、難しいですよね。

子供ならまだしも、大人になってから、舌を掴まれるように、自分を裸にしてもらえる瞬間って、あるでしょうか?大人の場合は、自分が無知であったり、不十分であったり、失礼であったり、ということを認識するのが、これに相当するかもしれません。

このように無知であることを意識したり、自分が間違っていることを指摘されるのは、いわば屈辱ですから、大人は、それを指摘される前に人間関係を避けたり、それが出ないように事前に回避することも多いですよね。

「一度、舌を掴んで素直になれば、その後は、子供の態度が全然違うんですよ」

わかる気がします。技術というテクニックではなく、取り組みの心構えが問題なのだ、と反省させる効果は絶大なのでしょう。

僕ら大人は、人に舌を掴まれた場合、その相手を非難したり、無関係を装ったりしがちなのではないかと思います。むしろ、それを受け入れられる人のほうが、少ないかも。しかし、その掴まれる瞬間をいただたくということは、日常において、極めて稀なことであり、この瞬間を見過ごすのは、その効果を考えると、勿体無いとも言えます。

この舌を掴まれる相手は、時に、上司であったり、お客さんであったり、自分の妻だったり、兄弟だったり、親だったりするでしょう。その人達に、素直に、舌を掴まれたことに、我々は感謝する余裕があるのでしょうか。

いやいや、そもそも、舌を掴んでもらえるほど、他人とコミュニケーションをとっていないならば、その他人は、あなたに言わなくてもいいやって、あなたの舌を掴もうと意識すらしないかもしれません。

「柔術は技術ではないんです。その人全てが出るんです。裸にならないと、」

彼の柔術は、柔術という技術ではなく、人の心構えを教わるような気がしました。

その後、彼と180CMの中学生の生徒さんは、名古屋の全国大会へむかいました。
がんばってねー。


あ・・でも、僕は、柔術は、、できないです。。


「コギさん、柔術やれば、絶対、おなかひっ込むよ!」 喫茶店の店長さんからの指摘。。。

いや、無理でしょう。いや、ムリムリ。 でもやれば、お腹、ひっこんで、割れるだろうな・・。

(上記のロゴは、宮崎のバッファロー柔術のロゴです。実際に戦わなくても、精神は負けません!って、言い訳??)