2011年8月31日水曜日

本当の共有





「経済が厳しい時代であっても、今の若者は、もっと失敗したほうがいい。デッサンをするときは、いくつもの線を重ねて、輪郭がはっきりしてくるもの。失敗を恐れて、最初の線を入れることすらできない若者が増えているのでは」ということをテレビで言っていました。勇気づけられます。何回か線を入れてみるのですが、輪郭がはっきりしてこないので、自信がなくなって、新しい線をひくのを躊躇するときがあります。誰かが、先にひいている輪郭をなぞっちゃうこともあります。でも、こんな時代だからこそ、自分の輪郭で、デッサンを仕上げてみたい。


このメッセージをFacebookに投稿して、いろいろな方からコメントをいただきました。テレビやネットで得た言葉に、自分が影響を受けたり、励まされたりして、それを、みんなで共有できるのは嬉しいです。


何でも器用にこなす先輩がいて、「なんで、そんなに器用にこなせるのですか?」という答えに対して、「退屈なことでも継続することです」と答えたんです。「男って、すぐいろいろやりたくなるんだけど、とにかく、継続して続けることが、何かを成し遂げられることだと思う。
」というニュアンスのことを言っていました。「継続は力なり」と校長先生も言っていたけど、今の時代、時代を言い訳にして、忘れていた気がする。地に足つけなきゃね。


これは、僕が尊敬するビオラの先輩に、飲み会で教えてもらったことを投稿しました。イノベーションだとか、変化の時代とか言われていますが、退屈なことでも、地道に継続するということを思い出させてくれました。


このビオラの先輩の親友で、コントラバスの先輩がいます。僕にとっては、なくてはならない先輩です。その先輩は、宮崎でコントラバスの職人をしています。僕は、埼玉にいる時から、彼のコントラバスの営業を東京でお手伝いしていました。かれこれ、2年以上、毎週、3時間近くの電話会議をしています。よく僕ら自身も、そんなに話すことあるな・・と後から思ってしまいます。日々のビジネスのことや、僕らにとって、仕事で大事なこととは何か?などを話し合います。


そうこうしているうちに、僕自身も妻の仕事の都合で、宮崎に来ることになりました。この先輩が、宮崎に僕を呼んだかも?とも思っています!?


その先輩が、ビオラの先輩の話を、僕がツイッターでつぶやいているのを見て、「小木くん、いろいろな人に影響受けていることをツイッターとかで、つぶやいているけど、毎週3時間ぐらい話している、俺のことは、いい話聞いたーって、つぶやかないんだね。俺、いい話してないのかなー」と指摘されました。


確かに、僕は、その先輩にびしっと僕の甘さを指摘されたり、優しい言い方で怒られたりしていますが、なぜか、今まで、ツイッターやブログで書いたことがないんです。




なぜでしょう??




人に、本質的な影響をあたえることは、単純な言葉のみで達成することはできない。


のではないのかな、と思いました。


つまり、上記のデッサンの話や、ビオラの先輩の話も、大変、勇気づけられる、いい話だと思いますが、自分を本質的に動かすのは、ツイッターでつぶやけるほど単純な言葉ではないように思います。つまり、コントラバスの先輩との会話は、影響を受けている大事な言葉を切り離すことが出来ず、ツイッターやFacebookでつぶやくほど、簡単なものではないのです。


確かに、ツイッターやFacebookは、気持ちや感情、大事なことを共有することができます。しかし、本来の共有とは、深く、長く相手と言葉を交わしているうちに、相手の意見か自分の意見か、気がつかないぐらいに、自分に浸透しているのものが、共有ではないかというような気がします。つまり、一言、二言では、共有はできないのです。


ツイッターやFacebookで、多くの人と共有するのは大事ですが、何時間でも話せるような、深い共有ができる、そんなコントラバスの先輩は、何億円の金貨よりも、何よりも嬉しい存在です。


(昨日の早朝に、そのコントラバスの先輩に、男の子の赤ちゃんが生まれました。難産でしたので、心配していましたが、本当におめでとうございます。)


(写真は、ATOMが、友人のワグナー(犬のぬいぐるみ)とカラダを張って?共有している写真です。夕食後にかならず、取っ組み合いをします。なぜか、ATOMは仰向けになって、ワグナーに乗っかってもらうのが好きなんです。Mなのかな?)

2011年8月6日土曜日

知を活かす

新聞で、「いきる」や「いかす」を、「生きる」、「生かす」を使っていますが、「活きる」や「活かす」を使う場合が多々あるのでは、とよく思っています。例えば、「経験をいかす」は、「生かす」が新聞では使われますが、個人的には、「活かす」を書いて欲しい。どうやら、新聞協会?等のきまりのようで、「生きる」を使っているようです。

毎日を、ただ、生活するのであれば、「生きる」でよいのですが、毎日を活き活き、生きるのであれば、「活きる」であるべき?なんて思っています。

僕は、弁理士という仕事をしているので、発明の話を聞いて、その発明に対して特許を出したり、ビジネス上で、そのアイデアをどうしたらいいのか・・といった話をお客さんとします。
しかし、話を伺う発明の全てが、特許になったり、ビジネスで成功できる!といった発明であるとは限りません。むしろ、いや、それは、、、特許にするのは厳しいな・・という発明が圧倒的に多いのが現実なんです。

「あ、いや、それだけでは、特許をとれないんです」

と僕が一言いってしまうと、すべてが終わってしまうことが多々あります。

発明者は、そのアイデアを、自分の一生のアイデアとして僕に説明してくれていることも多々あります。何回も考えたでしょう。それで、これでいけると思って、思い切って、僕に会いに来てくれて・・・一生懸命に説明をしてくれています。極端な場合は、そのアイデアが自分の自己実現として、熱く説明してくれる場合もあります。

そんなアイデアに対して、「それは、こんな技術が最近、流行っているので、これと同じですよね。」
と、あっさり返してしまっては、失礼な場合もあります。もちろん、特許の相談に来られているので、既に、誰かがやっていて新規ではないものや、進歩性がないものについては、はっきり、指摘しなくてはいけません。ですが、それだけで、突き放すのは、あまりに酷な場合も多々あります。

「今のままでは、厳しいのですが、それって、こういうことをやりたいんですよね?その特徴はこういうところなので、同じ方向で考えると、こういうことに適用できますか?」「あーそうなんです。その場合も、実は・・」といったように、発明を更に発展させるように、素材を「活かして」いくと、そのブレストの中で、新しい発明が生まれたり、特許になりうる技術が生まれます。

発明を「活かす」こと、これが僕らの仕事です。つぶすことは簡単かもしれません。つまり、若干、いまいちなアイデアに対して、単に、発明が生きているままに捉えて、ダメ出しをするのではなく、その発明を「活かす」にはどうしたらよいか考えてみる。アイデアの芽を活かしてあげる・・それが弁理士の仕事なのでしょう。そんな、弁理士の仕事は、なんだか人々の“知”を育んでいるように思います。

生徒の個性を「活かす」ことが大事なんです。

学校の先生が、こういうふうに発言する際には、「活かす」であって、当然、「生かす」ではありません。単に、僕らは、生きていれば良いのではなく、その人の特長を活かすことが大事で、活かすことが、生徒たちが長く生きる人生において大事であると言えます。例えば、自分の個性を活かして、社会で活躍したり、自分に自信が生まれます。それを促すことが教育と言われているのでしょう。先生は人を育みます。

僕ら弁理士は、特許庁に対する、単なる書類の作成屋さんではありません。アイデアがあればそれで、仕事が終わるわけではありません。我々は、アイデアの育て役です。そこに、「その人のアイデアの特徴を活かす」という手法を用いて、知を育んで、ひとりでも多くの知を輝かせることができれば、と思っています。

(アトムも、ただ生きるのではなく、思いっきり走りまわって、活き活きしたいよね!)