2014年8月11日月曜日

プラハからミュンヘン 車中にて

プラハとミュンヘンに行ってきました。プラハからミュンヘンは、鉄道で移動。6時間近く、時間があったので、下記、記録を残しました。

かつての神聖ローマ帝国の首都、プラハの街は、文句のないほど美しい教会と、モルダウ川が導く街。

プラハの夕べ(2014.7.19)

壮大なスケールの教会と、キリストを表す金と銀の装飾品が、かつて宗教と政治権力が強く結びついたことを教えてくれた。これだけのスケールの建造物は、もはや資本主義社会では作り出せないであろう。

プラハ城

かの有名なモルダウ川は、思った以上に周りの建造物との調和に目を奪われた。水面に反射する夕日が、橋たちに飾られる彫刻と重なる。昨年、大きな洪水があったという。我々がその写真を見ると、年配の女性が一生懸命、ダムが決壊したことを英語で説明してくれた。

市内は、観光客で埋めつくされている。スーツ姿のサラリーマンは数えるぐらいしかいない。Tシャツ姿の西欧人、中国人が目立つ。日本人はめったにみないが有名な観光スポットではツアーで見かけた。ムハの美術館では彼らのあまりの短時間での見学に驚いた。私達の滞在の3分の1程度ではないかと思う。また、日本人の旅行者は、高めの店にいることが多いが、あまり会話が弾んでいるように見えなかった。メニューがわかりにくかったり、ウェイターとのコミュニケーションに不安を感じていたのだろう。

チェコはかつてドイツの支配下にあった。ガイドの話によれば、皮肉なことに、ドイツの支配下にあった頃は平和であった、ということだ。もちろん、侵略の悔しさはあったが、判断が難しいということ。

神聖ローマ帝国との30年戦争を経て、✴ボヘミアに対する思いが高まったのか、偉大な芸術家のボヘミアへの想いがプラハに集中しその想いを垣間見ることができた。画家のムハ、ドボルジャーク、スメタナなどの著名な芸術家が祖国チェコのための作品を残している。特に、スメタナのモルダウは言うまでもないが、ムハのスラブ叙事詩の大西欧人作は、チェコの苦しみと未来へのパワーを感じる力作であった。

ドボルザークの銅像

かつての建造物の美しさは世界一だが、経済的には発展途上である。街はスプレーの落書きも多く、ゴミの処理はひどい。共産主義国から資本主義に切り替わってまだ間もないこともあろう。10年前のマレーシアと同程度の経済レベルに感じた。しかし、高級車は多いように感じた。貧富の差が大きいのかもしれない。外資も多く入っている。ユニクロはなかったが、宿泊したホテルはイタリア系であったし、近くのスーパーは中国系であった。様々な国が商売をしに来ている
プラハ中央駅

僕らは、2等のボックスに座る。妻とわたし、他にチェコ人らしいドボルジャークの若い頃のような男性と、フランス人ぽい夫婦の5人のボックス。何と無く、ボックス内は会話もなく、気まずいとまではいいすぎだが、少し緊張している。

これを打ち破ることが起きた。

急に車掌から、次のピルゼンで列車を乗り換えるようの指示があった。英語を喋れないようでドボルジャークの男性が通訳をしてくれた。男性に改めて礼を言うと信頼を確認できた。男性はピルゼンで降りた。ビールを造りにいくのだろうか。

僕らはその隣のフランス人らしい夫婦とともに列車を移動した。この列車のホームと列車の間の階段が最悪で、ステップの幅が狭く、ステップを使わず、一気にスーツケースをホームから列車に上げなくてはならない。
がんばって、荷物をあげ、席に向かうとなぜか若者が6名陣取っていた。
まさかこれから、4時間席なし!と思いながら、若い女性の車掌に相談。彼女の答えは、アイドンノウであった。。彼女は上司に聞きにそのばをたちさった。

ここまで来ると、笑いがでた。。この状態で日本なら、私、わかりませんというはずもないし、この程度で動揺してしまっていることに逆に、頑張れと応援したくなった。

結局、我々フランス人と4人は、他の空いている席で許可された。最初からそうすればいいのに。。おかげで気難しそうなフランス人とは距離がちぢんだ。しかし、乗り換えたピルゼンでは、写真も撮れず残念。
犬は多くがリードをしていない。つまり、放し飼いなのである。プラハのトラムが走る街中でも放し飼いなのは驚いた。つまり、細い歩道を車にひかれず、犬が判断して歩くのである。また、吠える犬がほとんど皆無で、日本の犬よりストレスを感じていないように思えた。犬ってこんなにスキップするように歩くのだっけと感じたほどだ。妻は道でジャックラッセルテリアを見るとストーカーになっていた。。

食事は、うまい。

ボヘミアンバーガー
カロリーを気にしていないのか、ボヘミアンバーガーのビーフは感激だった。外国でお腹すいているからというのもあろうが、油とベーコンとの絡みがワイルドで、もはや、マックのワイルドは、マイルドであろう。原料の単価をあげて欲しい。

ピルセンビールはいくらでも飲めた。サッパリでありながら、最初の口当たりのボリュームは快感だ。ワインもさっぱり目で甘くなく、ボヘミアの舌のレベルの高さを感じた。欧州に来ると昼間からでもビールが飲める。日本でもできるが、なんとなく後ろめたさが残り、本来の意味でうまいビールは飲めない。それはそれで、改善しなければだが。。
車窓からの風景ードイツ国境近く北海道のような情景が続く

列車は、ゆっくりすすむ。

景色は、秋の北海道の景色だ。刈り入れ終わった麦畑の茶色が広大に続き、ある時は、山いっぱいの牧場が美しい。車道にはだいたい木が植えられ、丘が重なる上に走る車道の蛇行が山の奥行きを感じさせる。家は、白い壁に三角の屋根が可愛らしい。かならず、赤茶色の屋根である。チェコの印象とあっている。たしか、広島や山口でも赤茶色の瓦の屋根が多いが、これは、鉄分を含み酸化されるからと聞いた。同じような理由なのだろうか。


山間部は牛や馬が放し飼いなのか、頻繁に速度を落として汽笛を鳴らす。隣のフランス人がこの警笛で目覚めてしまうほどだ。各駅での停車時間も長い。しかし、旅ってこういうものだよなと思い出す。新幹線や飛行機で最短時間で移動しながらもメールをチェックしている自分を思い出す。僕らはこんなに効率的に生きることを追求していて大丈夫なのだろうか。

彼らは、友人や恋人に会うと、最初に目を合わせて、次に頬にキスをする。年配の女性同士が、行うのを見て、素敵に思えた。心を通える人と共に生きて行くだけで人生は充実できる、そんなことを感じた。

西欧人は、食べる量が多いが、メタボにならない体質の強さがあるように思える。自分たちが同じぐらい食べると、大変なことになりそうだ。でも、ボヘミアンハンバーガーはたまに食べたい。体格は大きい。僕はこっちで生活すべきであろう。

今、ドイツに入ったようだ。

妙に、列車が前より早く走る。汽笛がならなくなった。車掌が変わっていたら、ドイツ人の生真面目さゆえに、正規の席に戻るように言われたら困るね、などと冗談を言う。しかし日本と韓国や中国の国境で、もし、運転手や車掌が変わったら、などと考えてしまった。韓国の船の事故である。

鉄道が50分遅れていることを、妻が笑って指摘した。日本なら災害時相当の遅れだ。僕らは、今日、ミュンヘンから2時間かかるフュッセンに夜までに入らなくていけない。でも、なんとかなると僕ら自身も普通に思っている、この雰囲気は心地良い。

ドイツ人の売り子が来た。売り子と言っても、僕より年上のおじさんであろう。制服をきて、ボックスひとつひとつに声がけをしている。これは日本では当たり前かもしれないが、ドイツ人になってからであり、さきほどまでは、私服でジュースを運びに来た。

「チェコ側では、仕事だから仕方なく売り子をやっていた感じだったけど、ドイツ人は売る気があったよね」との妻のセリフ。

チェコの売り子を笑うのではない。売り子という商売に対する鉄道会社の心構えの違いを言いたい。全く同じ状況での業務で有るが、売り子に必要なアイテムをつけさせて、売り子に使命も感じさせて行動させることは、商売で重要だ。

もちろん、チェコではそこまで投資できないからということもあろうが、中途半端な心構えは、売り子という職業に失礼なのかもしれないと僭越ながら感じた。宮崎でも同様のことがありそうだ。

ルーゲンズバーグで、ドイツ人夫人が我々のボックスに加わった。ドイツ人ってこんなに陽気なのだと思うほど元気だった。

ドイツに入ると駅は、日本に似ている。ホームや道路もコンクリートだ。ただ、根本的な部分はチェコとあまり変わらないとも言える。それは昔、占領地であったからでもあろう。
ドイツの家も白い壁に三角屋根であるが、焦茶色の屋根も多い。そして、古い家に太陽光発電を備えている。ところで、ドイツのホテルは、高級な所でもエアコンがない所が多い。日本人ほど電気を使わないのかもしれない。

約30分遅れでミュンヘンに着く。

さて、フュッセンまでの電車はあるか。というのも、実は僕らの最終目的地はミュンヘンから2時間先に行ったフュッセンである。しかし、午前中に予定していたプラハ発ミュンヘン行きは切符が取れず、急遽、午後の電車となった。そのため、フュッセン行きの列車があるのかわからない。

ミュンヘン駅に着き、ドイツが初めての我々は、全ての表示は、ドイツ語のみであることに、若干、動揺しつつ、DBがドイツの鉄道会社であると妻が気がつく。DBの受付は、混雑するも、運良く英語で若い受付の男性に話しかけてもらえた。よっぽど困っているように見えたに違いない。21時発23時過ぎ着があるけど、着くの遅いよ。というアドバイス。ひとまず、今日中につけそうなことに安堵。

チケット購入の受付番号カードを片手に待っていると妻が気がつく。「ホテル、22時でチェクイン受け付けないって書いてあるよ」とホテルのホームページを片手に。

ひとまず、ホテルに電話だ。

ホテルに入れてくれれば、フュッセンまで行くし、入れてくれなければ、ミュンヘンに泊まろう。どうやって電話をかけるか?まずは公衆電話。なんとか見つけて受話器を取るも、クレジットカードが認識しない。今回の旅が前回とは違うのは、携帯電話が使えることだ。使い放題のネットワークにつなげると、日本からの留守電やショートメールを受信。ホテルにでんわ。運良くつながり、事情を説明すると、着いたらドアノックしたら入れてくれるということ。「Really?」と聞くと、相手は笑いながら、OKとの返事。

フュッセン行きのチケットを無事購入し、なんとかなりそうに安心していると、アジアンフード屋さんが目の前に。プラハでは見当たらなかったので、たまらず、カツレツと焼きそばのセットとコーラを頼み、腹ごしらえ。



いざ、車両に乗り込むも、チケットはホームでの打刻がないと、罰金40ユーロということ。。打刻はしていない。。列車は発射した。。

いつ、車掌がチケットを確認に来るか。その時は来た。金髪と制服の青年が確認に来た。我々は、ユダヤ人になったかのようだった。妻は、打刻するなんて知りませんでした、と言い切るつもりで演技前、準備十分な状態。しかし、思いがけず、かれはサンキューと言いながら、ハンコを押した。これに妻は、驚き、返ってええーといいそうな驚きの顔で僕を顔見。これに反応して、青年も僕を顔見。僕は、妻がなんでそんな顔するんだ、嘘つけない人だなと思いながら、とぼけて無視すると、隣の女性が、タイミング良く青年に話しかけて、空気はごまかされた。

後で調べると、時刻が入っているチケットは打刻が必要ないということだった。。

フュッセンに到着。時刻は23時半をまわっている。降りた客は我々含めて、5人のみ。
イメージで言うと、軽井沢に最終便で到着した感じであろう。

ホテルまでは、9分歩く。真っ暗だ。緑に囲まれたホテルがみつかる。入口の明かりを頼りに、ドアフォンを押す。若い少年が快く鍵を渡してくれた。

朝。まるで、ミヒャエルエンデのネバーエンディイングストーリーを連想させる幻想的な山と森。針葉樹の葉の細かさが繊細な美しさを感じさせる。これがドイツか!自然の美しさと気候の良さに感動。


ミヒャエル・エンデの世界が現実に!?

ここで絵本読んでもらいたい!?