2014年11月25日火曜日

幸せに成長が必要ならば、人生には楽しみが必要では

「論語と算盤」と「学問のすすめ」

最近、人の“道”を知りたいという気持ちになっています。

独立して事務所を経営し、資本主義の論理につかり、自分の判断基準がそこにどっぷりいることに、自分の狭さを感じながらも、自分はそれだけではないという思いもあります。しかし、それだけではないといっているものは、何なのか。

自分についてきてくれるスタッフへの感謝や、宮崎県をはじめ九州に対する愛情、お客様への感謝など、わずかながら自分でもあるかもしれない私的な愛情を越えた、公的な愛情をよく理解したい・・・そんな気持ちがありました。

厳しい判断を求められて生きていくのに、判断の拠り所があると”道”ができるよ。こんな言葉を人生の先輩からも頂きました。


そこで、論語を勉強し始めました。


自分が幸せだと思えることの、おそらく一番に上がることとは、自分が成長したことを実感できることではないでしょうか。
僕は、なぜ、論語の多くの本で、下記の一節が論語の紹介では必ず、前半部分に紹介されていることを不思議に思っていました。

「学びてときにこれを習う。またよろこばらしからずや。」

学んで成長することは、人が人として幸せな状態にあるために、一番、大事なことと言っている。そんなに成長することって、幸せに生きるために必須のことなのでしょうか?

僕らは、日常、出会う人達は、みな幸せそうに見えます。しかし、多くの人が、人生の80年間の一瞬一瞬を常に成長し続けることは難しく、僕達が日常で出会う人の8割以上は、出会ったその瞬間、成長していない人もしくは、成長する努力をしていない人なのではないかとも考えられます。そうすると、実は、現代人は、多くが不幸せ??

確かに、成長を感じさせる人は、パワーをもらえるし、ユーモアも多く、いつまでも話をしていたいような衝動にすらかられます。

じゃあ、成長はどうやったら得られるのか?

学ぶことで成長が得られる。しかし、学びとは、知識を蓄積することのみではない。むしろ、その知識を様々な角度から応用できる知恵が必要である。

それでは、どうやったら、知識が知恵と結びつくか?

僕は、知識が知恵と結びつくとは、“遊び”の要素ではないかと思う。そのことを“楽しむ”ことの要素ではないかと思う。


「これを知る者は、これを好むものに如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」


まず、知識を得て、その知恵を楽しんで、知恵という応用に活かすことが学ぶことなのではないかと考えます。

しかし、知識をつかって“楽しむ”にはどうしたら良いのか?

それには、“感動”が必要ではないかと思います。

自分の経験で今でも忘れられないのが、中学生の時、連立方程式で、代入法を習った時です。

そうか、ひとつの式を、Y=の式にしてしまえば、Yをもう一方の式に代入できる。XとYが、両方なんてとても求められないよと思っていたので、この時の僕の感動は大きかった。それからは、もう連立方程式を解くのが楽しくなり、X,Y,Zなどの3つの変数でも怖くなくなったのを記憶しています。

すなわち、

知識→感動→楽しみ→知恵 

が、学ぶ=成長する、ためのステップではないでしょうか。

ここで、最初に戻って、

学んで成長することは、人が人として幸せな状態にあるために、一番、大事なこと、だとしたら、このステップを経て、成長するためには、必ず、「感動」や「楽しみ」が必要であるということでしょう。ということは、幸せなら、「感動」や「楽しみ」があるのは当然だとしたら、この理論は、一つの閉じた論理になりそうですね。

僕らが幸せに生きていくためとは、感動と楽しみを通じて、学び、成長することが、ひとつの答えなのかもしれません。

(渋沢栄一氏の「論語と算盤」、ビジネス教養としての「論語」入門(著:守屋淳)、今友人たちと勉強中の「学問のすすめ」)

2014年11月24日月曜日

新しいわんこ

MAXといいます!

ATOMが亡くなったのが4月20日でした。偶然ですが、丁度、7ヶ月後の11月20日に、我が家にわんこが来ました。

やはり次に飼うのもジャックラッセルテリア以外は考えられませんでした。しかも、毛が多いジャックも、やはり、気が進まない。根拠はないけど、今度は、少し黒っぽいほうがよいなあ・・という曖昧な理由で、夫婦でこのわんこを選びました。

男の子ですが、非常におとなしく・・・、人懐こい・・ちょっと頼りない?と思うような性格です。皆さんにもお会いすればすぐにお友達になれる(さらっていけちゃう?)のではと・・。まだまだ仔犬なので、これからどうなることやら。

名前は、本当に決めることが出来なくて、2日間悩みました。友人達からFBで、そら、うず、パス、ウラン、ヤハギ・・など、ご提案いただくも・・うーん・・と。

そこで、ドイツの友人が、マキシミリアンという名前を提案。実は、僕自身は、あまりに長い名前なので即効で却下したのですが、妻が、MAXっていいかも・・。と。僕も、それを聞くと、なぜか、毛色の黒、茶、白の配色の繊細さが、ドイツの雰囲気と似ていて、イメージがはまりました。

これからの成長を楽しみに。

2014年11月16日日曜日

裸になって人から本質を指摘されることは、飛躍のヒントでは。




阿蘇 大観峰周辺の牧場(エルパティオ)

今回は、カミングアウトします。このブログの女性ファンには、少し刺激的!?かもしれません・・。

大学のコンパ芸で、裸になりました(全裸です)・・。

私は、管弦楽団という、女性が多い部にいましたので、男性が裸になる・・パンツを脱ぐなどはご法度でした。しかし、大学の合宿のコンパ芸で、なにかやらなくてはいけない・・と追い詰められた自分は、洗面器浮遊術などを披露するはめに。どのような術かは、皆様のご想像にお任せします・・。しかし、意外にも、術の披露後に、女性からも暖かい声をいただいたような・・(そう、思い込ませてください・・)。

なぜ、このようなことをカミング・アウトしたかというと、最近、久しぶりに、心が裸になって清々しい気持ちになったからです。

「小木さんは自尊心、悪く言うと、自己顕示欲が強すぎるときがある。自分が他人を支配したいと思って行動している時あるよね。」と指摘。

この指摘は、ずしん、ときました・・。地方に来て3年。事務所も落ち着いてきて、弁理士として、少し安定してきたことは認めるところ。要するに、自分の鼻が高くなって、自信が強まっていることも否めないのでしょう。

これは、自分にとって非常に大切な師匠&親友に指摘され、しかも、複数人から言われたので、さすがの自分も認めるしかない状態。

僕は、実は、この指摘の真逆で、子供の頃から、自分に自信がなく、こだわりがなく、やりたいことを諦めて、失っていた人間でした。自分のやりたいことができて、人をリードできるような人間になりたい!けど、なれるとはとても思えない・・という子供時代でした。しかし、働いて、自分が活かせる仕事を見つけて、少しづつ自分が描く未来に共感する仲間が現れてきて、自分がリーダっぽくなっていく場面が徐々に増えてきました。

そして、僕を変えた大きなポイントは、宮崎に来たことでしょう。


弁理士が数名しかいない地方で、この希少な資格を持っているのであれば、自分が動かなきゃ、宮崎の大事な知財が埋もれるのでは、という危機感は強くありました。

ですので、激しく動き回りました。

これが、いい意味で自尊心の原因になったのでしょう。責任や覚悟という言葉も意識し始めました。しかし、度が過ぎて視点がずれると、自己顕示欲にもなりうるということでしょう。これは未来を描くときに、我を優先するのか、相手を優先するのかの視点の持ち方の違いかもしれません。僕は、我を見てしまうこと、自分のみが認められたいと思う傾向があることに気が付きました。器が小さな自分をそこに見いだせました。

いずれにしても、僕は、このことをはっきり指摘してくれたことが非常に嬉しく、このことを考えて、ブログにまで掲載できるようになるまでは、時間がかかりました。しかし、裸の自分になって、このことを受け入れると、自我が少し広がったような感覚になりました。

たとえば、弁理士や弁護士など、ある程度、社会的に地位が高いと思われてしまう専門家であると、なかなか、このような本質の指摘は、他人はしてくれないように思います。それを言う必要はないからです。しかし、あえて、言ってもらうことで、新しい自分が作られた感覚です。

なぜか、これを意識してから、肩が軽くなったように感じ、さらに大きな責任も自分の肩に載せられるのでは、という感覚になっています。

これは、師匠によると、徐々に、我を捨てて考えられるようになり、自我が広がって、肝が座り、覚悟ができはじめているからでは、とおっしゃっていました。

このような人生における、「過程」を感じられることは幸せです。発展途上である自分は、幸せなのかもしれません。

裸になって、人から本質的な自分の指摘をされることは、自分にとって、大きな飛躍のヒントになるのかもしれません。