2015年3月22日日曜日

Gifts and Choices (才能と選択)

宮崎港にて 2015年3月1日

下記は、アマゾン・ドット・コムの創業者ジェフ・ベソスさんのお話。

彼が子供の頃、祖父と、たばこを吸う祖母と一緒に、車に乗っている際に、喫煙が体に悪いという広告を見る。

広告には、1回の喫煙で2分の寿命を縮めると書いてあったため、彼は即座に計算をして、祖母にむかって、「1回すって2分間だとすると、おばあさんは9年も寿命を縮めることになるね。」といったそうです。

そのとき、彼の祖母は泣きだしてしまい、祖父は、車を停めて、彼にこういいました。

「ジェフ。いつかお前にもわかると思うが、賢くあるよりも、心優しくある方が難しいのだよ」と。

彼は、このエピソードから、”賢さ”は、生まれつきの”才能”であり、それほど、難しいことではないが、”優しさ”というのは、”選択“であるから、賢さよりも難しいのでは、ととく。

あ、いや、もちろん、彼は・・いわゆるアメリカンドリームを実現した創業者ですから・・賢くて、自分など及びもしない・・ということがありますが、非常に重要なことを指摘してくれていると思いました。

これからの世の中は、難しい社会になりますから、賢いことが重要になってきていると言わざるを得ません。しかし、このまま科学が進歩して、やれクリーンエネルギーだ、人工知能だ、と技術が進んでも、優しさが表れない社会でなかったら、一体、どんな世界になってしまうのでしょうか。

優しくあることは、常に難しいことです。

何かの目的に対して、早く考えて良い結論を出したり、計算を早くしたりすることは、機械でも出来るようになるでしょう。でも、僕らは、その結論を、他人のためにつかう、つかわない、という、選択ができます。愛情があるからなのですかね。

僕は、昔から、性格が優しいのが長所だと言われていましたが、実は、”なよなよ”しているだけで、強い優しさがない、と自分で感じていました。

他人がいじめられている時に、勇気を持って、いじめっ子に文句が言える、強い優しさ。そんな力が自分にはなく、いつも、そんな力をつけたいと思っていました。

いま、会社を経営していて、当然、リーダーシップが求められます。当然、優しさなくては、皆の力は集められません。特に、強い優しさをしっかり発揮しないと・・。

「優しさ」は、才能ではないとしたら、後天的にできること。それなら、自分でもできるはず。愛情のある「選択」に、これからも悩んでいきます。

2015年2月8日日曜日

本当に人が求めるものとは。

NHK「サキどり」2015.2.15放送予定 撮影風景 @宮崎のソシデア事務所にて

ドリルを買いにホームセンターに行く人が本当にほしいものって、なんだか分かりますか?

何を言っているの?って思いますよね。ドリルを買いに行ったわけですから、そりゃ、ドリルが本当に欲しいものだと思いますよね。

そうではないということです。ドリルがほしい人が本当にほしいのは、「ドリル」ではなく、「穴」です!と、マーケティングの先生であるレビット博士という方が指摘しています。

これって、深くないですか?少し応用すると、いろんな考え方に適用できるなあと・・。

例えば、お茶が欲しい人は、お茶という有体物がほしいというよりも、喉の渇きを潤したいという欲求を満たしたいというのが本当に求めるものでしょう。

さらに発展させると、結婚相手を決めるとき・・・。彼氏と結婚したい!という場合に、本当に欲しいものは、彼氏自体というよりも、彼氏と一緒にいて幸せな状態である自分、が本当には欲しいもの、ということではないでしょうか。

僕は、知的財産の仕事をしているので、商標を扱いますが、お客様は商標権という実体よりも、大事な商品名の”信用“を守ってほしいというのが本当にお客様が求めているものでしょう。

また、特許であれば、特許権や特許証という実体ではなく、”アイデア”が客観的に新しいと認められる、という栄誉や、自分の大事なアイデアを守ってもらえる、という無体的な効用の方が、お客様が本当に求めていることなのでしょう。

視点が認識を生み、認識が判断を促します。視点は文字通り、見る点なので、商品開発であれば、有体物である商品が判断の拠り所になりがちです。つまり、どうしても、商品に目がいってしまいますが、本当に人が求めるものは、その商品によって得られる効用(利益)をみなくてはいけないということではないでしょうか。

例えば、同じ商品(有体物)でも効用が異なれば、新商品になり得る=需要を創造できるということも言えるのではないでしょうか。これが、客観的には、商品の機能がほぼ一緒であっても、ネーミングやデザイン、売り場を変更することで、顧客の効用を喚起させて、ヒットにつなげることができる可能性が大いにあり得るような気がします。この辺りに新しい商売のヒントが隠れている気がしてなりません。

(来週の15日に、NHKのサキどり「休眠特許」のコーナーで宮崎の発明家が放送されます!ソシデアが橋渡しをしておりますので、是非、御覧ください。私はほとんど放送されないかもですが・・。)

2015年1月3日土曜日

伝える力

宮崎神宮 2015.1.3
宮崎はお正月でも空が青くて高い!

読者の皆様、新年、あけましておめでとうございます。

大変、未熟なブログですが、6年目になりました!今年も、散歩よんぽを宜しくお願いします!

昨年のブログを見ていると、途中から内容がわかりにくくなっているなあと・・自分で少し反省しました。

自分としては、①皆さんに伝えたい内容と、②その内容を伝える力、で、ブログなどの文章の面白さは評価されると思っています。

自分は、弁理士なので、発明という曖昧なアイデアを文字で客観化して他人に伝える仕事をしているため、普通の方より、幾分かは、②の伝える力はないわけではない・・のかと思います。とはいえ、もっともっと努力が必要です・・。

しかし、①は自分のセンサの持ち方、視点の持ち方、視野の広げ方、人生の経験、人との出会いによって、非常に大きく変わります。2014年は、素晴らしい人達との対話やご指摘によって、多くの視点の持ち方、視野の広げ方、新しいセンサの備え方を教わりました。極端に言うと、僕の中で、すべての物事が新しい色を帯びたように、見方が変わりました。今までにないセンサがついたならば、当然なのかもしれませんが、最近、経済や歴史を知ったり、音楽を聞くと、少し前と違った感覚を持つようになった気がして、なんでいままではこういうふうに感じていなかったのか不思議になったりします。

そんなわけですので、感じたことがあまりに多く、伝える力が追いついていないブログ内容になっている・・という状況だったかなと思います・・。

今まで、感じたり、経験したことがない、物事を知ることは、自分にとっては初めてですから、今までにない表現方法も必要になってきます。つまり、あまりに自分にとって新しすぎる経験や、体験は、まだ伝える力が備わっていないことが大いにありえます。

自分にとって、あたらしすぎる経験を表現するには、少し時間をかけて、他の人がどのように伝えているかを学習しないと、他人に充分に伝わらないことが多いといえます。

ですので、その新しく表現したい物事について、常に頭のなかでフラグを立てておき、そのことを、他人が、どのような言葉で説明しているかを時間をかけて知ることで、伝える力が上がります。この時に、初めて、その新しい知を他人に伝えられる気がします。

ちなみに、この時に人は、ものすごく学習意欲が上がるように思います。自分が今ある、この考え方は、きっと過去の他人も同じように考えているはず、と信じて、今まで手に取らなかったような本をとって、その立っているフラグに適合する表現を見つける。そんな本の読み方って、素敵かなと思います。

話を戻しますね。一般的に専門家や先生と呼ばれる方は、客観的に発言しなくてはいけませんから、伝える力が、充分装備されている範囲内でしか発言をしないことが多いでしょう。そのため、専門家が経営者から、話が噛み合わないとか、答えになっていないとか、物足りないと言われていまう要因にもなったりもしているように思います。

自分の場合は、そこまで計算高いわけではなく・・・、
人は(少なくとも僕は)、それほど理性的ではなく、情熱的に人に伝えたいこともありますよね・・。

つまり、まだ自分には伝える力が備わっていない未熟な状態でも、新しい伝えたい内容を、つい、言いたくなってしまう場合があります。これは、情熱がなせるわざとも言えますが、未熟とも言えます。なので、客観的な人間性をアピールしたい場合は、あまりよい行為ではないかもしれません。

ただ、伝える力が備わるまで、その新しい発見を記載することは出来ないとすると、寂しいことになる(ブログで共有する必要まではないかもしれませんが・・)・・というのが自分の考え方です。

また、そこで表現してみようと思うことで、その表現している瞬間に、伝える力に足る表現が自ら見つかる場合も、多々あります。僕は、これを期待して、話し始めてみることもあります。しかし、うまく表現が見つからずに、鼻息だけ相手に伝わることも・・(お恥ずかしい・・)。

とはいえ、

どんなに伝える力がよくても、内面に伝えたい発見がなければ、人は伝えてほしいと思わない、

と思いますし、

逆に、

どんな良い発見があっても、伝える力がなければ、独りよがり

になってしまうと思います。

後半は、微妙ですね。独りよがりでもいい??と思えば、伝える力はなくても良いかもしれません。でも、僕の場合は、それほど強い人間ではなく、他人と共有して自分が維持できるタイプのようですので、その想いを他人に客観的に伝えたいのです。だから、弁理士をやっているという面もあるのでしょう。

自分としては、どちらも伸ばし続けることが必要です。

今年もこの努力をして、生き方や豊かさについて、ちょっと違った視点を皆さまにお伝えできればと思います。今年も何卒、宜しくお願い申し上げます。

2014年12月22日月曜日

強制結合をし続ける情熱 (大牟田まちなかシリコンバレー)

大牟田の銀座商店街 (松坂屋の跡地が駐車場に・・)
僕らは、何かを認識するときに、対象が、ある箱に入るかどうかで認識します。

すみません、わかりにくいですね。

例えば、“みかん”であれば、黄色くて、冬に買う、甘い食べ物を、みかんの画像イメージと結びつけて、認識していると思います。つまり、みかんを認識するための箱を用意して、対象と照合して判断するわけです。

例えば、ポンカンや日向夏をみたときに、その認識の箱に入らないから、これは、みかんではない、と判断できるわけです。

ただ、ときには、この箱を壊して考えることが重要になります。

そうです。この認識の箱を飛び越すことが、いわゆる、天才的なひらめき、だったりするのです。

自分の頭の中の箱を少し壊して、他の箱とくっつけることで、新しいアイデアが浮かんできます。これを、自分の師匠によると、強制結合というそうです。

上記の写真は、大牟田駅近くの商店街です。最近、有明高専の先生を中心に大牟田まちなかシリコンバレーという集まりがあり、起業家の育成と、商店街の活性化を目指されています。私もどういういきさつか、お仲間に入れていただきました。

大牟田という街は、かつて、三池炭鉱の街として大いに栄えたところで、カルタや押し花など、様々な文化が育まれました。しかし、現在では、商店街もシャッター街となり、松坂屋デパートの跡地も、駐車場になっています。

どうやって、このような商店街を活性化させるのか?

諦める? いやいや、新しいアイデアを産み出す強制結合をしてみましょう。

かつて、自分が宮崎に来て、地域活性化といった時に、僕は、その土地の情報を集めれば、地域の活性化のヒントになると思っていました。つまり、地方であっても魅力的な価値はあるわけだから、その情報を集めて、都市に発信する広報さえできれば、何か経済的な価値を産み出すものになるのではと。

宮崎に来て3年、。お陰様で、僕のまわりには多くの中小企業や発明家の情報が集まったように思います。しかし、真に経済的な価値を産み出すに至っていない場合が多い・・。なぜか?その情報(知)のみでは、不十分であって、他の情報(知)とさらに結びつけて、価値を高める必要があるということに気が付きました。

現在、スマホや自動車は、知財がミックスされた商品と言われ、ひとつの製品でも、特許・デザイン・ブランド等いくつもの知がミックスされて初めて、商品の価値が消費者に伝わると言われています。

少しでも価値を産み出す可能性があるもののいくつかを、強制結合して、相乗的に価値を産み出していくことが大事ということでしょう。

聞くと、大牟田の商店街では、かつては、インターネットで商品を購入するから商店街に来る人が減ったため、ITに対する理解も殆どなかったようです。しかし、これからはITと一緒に商店街の活性化を図るべきということで、いわば、強制結合で、大牟田まちなかシリコンバレーも始まったと聞きました。現在、彼らが中心に洋風カツ丼による商店街の活性化がはじまっています。さらなる価値創出は、これからが面白くなってくるのではないかと期待しています。

この企画は、有明高専の先生と若手のIT起業家により実現されました。

何か新しく画期的なアイデアを出すには、そこにある”知”を強制結合して検証するということを何回も繰り返す程の情熱が必要であるということでしょう。僕も耳が痛いですが・・。

我々専門家は、強制結合ができるほどの情報(知)が集まっているのは確かではないでしょうか。

でもそれは、単に情報(知)があることに過ぎないのであって、この情報(知)同士のあらゆる組み合わせを、強制的に結合して、目的(商店街の活性化など)に適合するか検証するこを繰り返すことで、初めて、真に価値がある商品やサービス、アイデアを産み出すことができるのかもしれません。

大牟田は、現在、三池炭鉱を中心に、近代化産業遺産の登録を目指しています。観光による活性化も期待したいところですが、加えて、若者に働くことや、起業への夢を与えることも大切ではないでしょうか。大牟田まちなかシリコンバレーの今後の期待とともに、自分も少しでも協力していければと思います。

2014年11月25日火曜日

幸せに成長が必要ならば、人生には楽しみが必要では

「論語と算盤」と「学問のすすめ」

最近、人の“道”を知りたいという気持ちになっています。

独立して事務所を経営し、資本主義の論理につかり、自分の判断基準がそこにどっぷりいることに、自分の狭さを感じながらも、自分はそれだけではないという思いもあります。しかし、それだけではないといっているものは、何なのか。

自分についてきてくれるスタッフへの感謝や、宮崎県をはじめ九州に対する愛情、お客様への感謝など、わずかながら自分でもあるかもしれない私的な愛情を越えた、公的な愛情をよく理解したい・・・そんな気持ちがありました。

厳しい判断を求められて生きていくのに、判断の拠り所があると”道”ができるよ。こんな言葉を人生の先輩からも頂きました。


そこで、論語を勉強し始めました。


自分が幸せだと思えることの、おそらく一番に上がることとは、自分が成長したことを実感できることではないでしょうか。
僕は、なぜ、論語の多くの本で、下記の一節が論語の紹介では必ず、前半部分に紹介されていることを不思議に思っていました。

「学びてときにこれを習う。またよろこばらしからずや。」

学んで成長することは、人が人として幸せな状態にあるために、一番、大事なことと言っている。そんなに成長することって、幸せに生きるために必須のことなのでしょうか?

僕らは、日常、出会う人達は、みな幸せそうに見えます。しかし、多くの人が、人生の80年間の一瞬一瞬を常に成長し続けることは難しく、僕達が日常で出会う人の8割以上は、出会ったその瞬間、成長していない人もしくは、成長する努力をしていない人なのではないかとも考えられます。そうすると、実は、現代人は、多くが不幸せ??

確かに、成長を感じさせる人は、パワーをもらえるし、ユーモアも多く、いつまでも話をしていたいような衝動にすらかられます。

じゃあ、成長はどうやったら得られるのか?

学ぶことで成長が得られる。しかし、学びとは、知識を蓄積することのみではない。むしろ、その知識を様々な角度から応用できる知恵が必要である。

それでは、どうやったら、知識が知恵と結びつくか?

僕は、知識が知恵と結びつくとは、“遊び”の要素ではないかと思う。そのことを“楽しむ”ことの要素ではないかと思う。


「これを知る者は、これを好むものに如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」


まず、知識を得て、その知恵を楽しんで、知恵という応用に活かすことが学ぶことなのではないかと考えます。

しかし、知識をつかって“楽しむ”にはどうしたら良いのか?

それには、“感動”が必要ではないかと思います。

自分の経験で今でも忘れられないのが、中学生の時、連立方程式で、代入法を習った時です。

そうか、ひとつの式を、Y=の式にしてしまえば、Yをもう一方の式に代入できる。XとYが、両方なんてとても求められないよと思っていたので、この時の僕の感動は大きかった。それからは、もう連立方程式を解くのが楽しくなり、X,Y,Zなどの3つの変数でも怖くなくなったのを記憶しています。

すなわち、

知識→感動→楽しみ→知恵 

が、学ぶ=成長する、ためのステップではないでしょうか。

ここで、最初に戻って、

学んで成長することは、人が人として幸せな状態にあるために、一番、大事なこと、だとしたら、このステップを経て、成長するためには、必ず、「感動」や「楽しみ」が必要であるということでしょう。ということは、幸せなら、「感動」や「楽しみ」があるのは当然だとしたら、この理論は、一つの閉じた論理になりそうですね。

僕らが幸せに生きていくためとは、感動と楽しみを通じて、学び、成長することが、ひとつの答えなのかもしれません。

(渋沢栄一氏の「論語と算盤」、ビジネス教養としての「論語」入門(著:守屋淳)、今友人たちと勉強中の「学問のすすめ」)

2014年11月24日月曜日

新しいわんこ

MAXといいます!

ATOMが亡くなったのが4月20日でした。偶然ですが、丁度、7ヶ月後の11月20日に、我が家にわんこが来ました。

やはり次に飼うのもジャックラッセルテリア以外は考えられませんでした。しかも、毛が多いジャックも、やはり、気が進まない。根拠はないけど、今度は、少し黒っぽいほうがよいなあ・・という曖昧な理由で、夫婦でこのわんこを選びました。

男の子ですが、非常におとなしく・・・、人懐こい・・ちょっと頼りない?と思うような性格です。皆さんにもお会いすればすぐにお友達になれる(さらっていけちゃう?)のではと・・。まだまだ仔犬なので、これからどうなることやら。

名前は、本当に決めることが出来なくて、2日間悩みました。友人達からFBで、そら、うず、パス、ウラン、ヤハギ・・など、ご提案いただくも・・うーん・・と。

そこで、ドイツの友人が、マキシミリアンという名前を提案。実は、僕自身は、あまりに長い名前なので即効で却下したのですが、妻が、MAXっていいかも・・。と。僕も、それを聞くと、なぜか、毛色の黒、茶、白の配色の繊細さが、ドイツの雰囲気と似ていて、イメージがはまりました。

これからの成長を楽しみに。

2014年11月16日日曜日

裸になって人から本質を指摘されることは、飛躍のヒントでは。




阿蘇 大観峰周辺の牧場(エルパティオ)

今回は、カミングアウトします。このブログの女性ファンには、少し刺激的!?かもしれません・・。

大学のコンパ芸で、裸になりました(全裸です)・・。

私は、管弦楽団という、女性が多い部にいましたので、男性が裸になる・・パンツを脱ぐなどはご法度でした。しかし、大学の合宿のコンパ芸で、なにかやらなくてはいけない・・と追い詰められた自分は、洗面器浮遊術などを披露するはめに。どのような術かは、皆様のご想像にお任せします・・。しかし、意外にも、術の披露後に、女性からも暖かい声をいただいたような・・(そう、思い込ませてください・・)。

なぜ、このようなことをカミング・アウトしたかというと、最近、久しぶりに、心が裸になって清々しい気持ちになったからです。

「小木さんは自尊心、悪く言うと、自己顕示欲が強すぎるときがある。自分が他人を支配したいと思って行動している時あるよね。」と指摘。

この指摘は、ずしん、ときました・・。地方に来て3年。事務所も落ち着いてきて、弁理士として、少し安定してきたことは認めるところ。要するに、自分の鼻が高くなって、自信が強まっていることも否めないのでしょう。

これは、自分にとって非常に大切な師匠&親友に指摘され、しかも、複数人から言われたので、さすがの自分も認めるしかない状態。

僕は、実は、この指摘の真逆で、子供の頃から、自分に自信がなく、こだわりがなく、やりたいことを諦めて、失っていた人間でした。自分のやりたいことができて、人をリードできるような人間になりたい!けど、なれるとはとても思えない・・という子供時代でした。しかし、働いて、自分が活かせる仕事を見つけて、少しづつ自分が描く未来に共感する仲間が現れてきて、自分がリーダっぽくなっていく場面が徐々に増えてきました。

そして、僕を変えた大きなポイントは、宮崎に来たことでしょう。


弁理士が数名しかいない地方で、この希少な資格を持っているのであれば、自分が動かなきゃ、宮崎の大事な知財が埋もれるのでは、という危機感は強くありました。

ですので、激しく動き回りました。

これが、いい意味で自尊心の原因になったのでしょう。責任や覚悟という言葉も意識し始めました。しかし、度が過ぎて視点がずれると、自己顕示欲にもなりうるということでしょう。これは未来を描くときに、我を優先するのか、相手を優先するのかの視点の持ち方の違いかもしれません。僕は、我を見てしまうこと、自分のみが認められたいと思う傾向があることに気が付きました。器が小さな自分をそこに見いだせました。

いずれにしても、僕は、このことをはっきり指摘してくれたことが非常に嬉しく、このことを考えて、ブログにまで掲載できるようになるまでは、時間がかかりました。しかし、裸の自分になって、このことを受け入れると、自我が少し広がったような感覚になりました。

たとえば、弁理士や弁護士など、ある程度、社会的に地位が高いと思われてしまう専門家であると、なかなか、このような本質の指摘は、他人はしてくれないように思います。それを言う必要はないからです。しかし、あえて、言ってもらうことで、新しい自分が作られた感覚です。

なぜか、これを意識してから、肩が軽くなったように感じ、さらに大きな責任も自分の肩に載せられるのでは、という感覚になっています。

これは、師匠によると、徐々に、我を捨てて考えられるようになり、自我が広がって、肝が座り、覚悟ができはじめているからでは、とおっしゃっていました。

このような人生における、「過程」を感じられることは幸せです。発展途上である自分は、幸せなのかもしれません。

裸になって、人から本質的な自分の指摘をされることは、自分にとって、大きな飛躍のヒントになるのかもしれません。

2014年9月28日日曜日

鹿児島の市来農芸高校で講演をさせていただきました!


全校生徒に自分が講演をするなんて・・。そんな人になるなどとは、自分が高校生の時には思いもしませんでしたが・・。

80年以上もの伝統がある市来農芸高校にて、先日、知的財産セミナーをさせていただきました。そんな伝統のある学校でお話できるということで、楽しみでもあり、少し自分の気持ちも引き締まって、講演をさせていただきました。

知的財産の”知”って、わくわくしながら、仲間と楽しんで生み出して、それを学校や地域のために財産にしていくもの。

これが、一番伝えたかったことでした。

福沢諭吉が言うように、「天は人の上に人を造らず」なのです。でも、なぜ、現実には、上下があるのか?

それは、”知”で、差がつくから。

だから、勉強をして知識をつける必要があるし、経験をして、”知恵”をつけてほしい。そのために、本も読むけど、それだけではだめ。勇気を持って、いろいろ経験して、自分で体感として知ることが、いいアイデアを産み出す源。

特許権とは?とか、商標権とは?というお話もしましたが、知的財産って、もっと深くて、もっと、わくわくしながら、明るい未来を創り出す源。そんなメッセージが伝われば嬉しく思います。

2014年8月11日月曜日

プラハからミュンヘン 車中にて

プラハとミュンヘンに行ってきました。プラハからミュンヘンは、鉄道で移動。6時間近く、時間があったので、下記、記録を残しました。

かつての神聖ローマ帝国の首都、プラハの街は、文句のないほど美しい教会と、モルダウ川が導く街。

プラハの夕べ(2014.7.19)

壮大なスケールの教会と、キリストを表す金と銀の装飾品が、かつて宗教と政治権力が強く結びついたことを教えてくれた。これだけのスケールの建造物は、もはや資本主義社会では作り出せないであろう。

プラハ城

かの有名なモルダウ川は、思った以上に周りの建造物との調和に目を奪われた。水面に反射する夕日が、橋たちに飾られる彫刻と重なる。昨年、大きな洪水があったという。我々がその写真を見ると、年配の女性が一生懸命、ダムが決壊したことを英語で説明してくれた。

市内は、観光客で埋めつくされている。スーツ姿のサラリーマンは数えるぐらいしかいない。Tシャツ姿の西欧人、中国人が目立つ。日本人はめったにみないが有名な観光スポットではツアーで見かけた。ムハの美術館では彼らのあまりの短時間での見学に驚いた。私達の滞在の3分の1程度ではないかと思う。また、日本人の旅行者は、高めの店にいることが多いが、あまり会話が弾んでいるように見えなかった。メニューがわかりにくかったり、ウェイターとのコミュニケーションに不安を感じていたのだろう。

チェコはかつてドイツの支配下にあった。ガイドの話によれば、皮肉なことに、ドイツの支配下にあった頃は平和であった、ということだ。もちろん、侵略の悔しさはあったが、判断が難しいということ。

神聖ローマ帝国との30年戦争を経て、✴ボヘミアに対する思いが高まったのか、偉大な芸術家のボヘミアへの想いがプラハに集中しその想いを垣間見ることができた。画家のムハ、ドボルジャーク、スメタナなどの著名な芸術家が祖国チェコのための作品を残している。特に、スメタナのモルダウは言うまでもないが、ムハのスラブ叙事詩の大西欧人作は、チェコの苦しみと未来へのパワーを感じる力作であった。

ドボルザークの銅像

かつての建造物の美しさは世界一だが、経済的には発展途上である。街はスプレーの落書きも多く、ゴミの処理はひどい。共産主義国から資本主義に切り替わってまだ間もないこともあろう。10年前のマレーシアと同程度の経済レベルに感じた。しかし、高級車は多いように感じた。貧富の差が大きいのかもしれない。外資も多く入っている。ユニクロはなかったが、宿泊したホテルはイタリア系であったし、近くのスーパーは中国系であった。様々な国が商売をしに来ている
プラハ中央駅

僕らは、2等のボックスに座る。妻とわたし、他にチェコ人らしいドボルジャークの若い頃のような男性と、フランス人ぽい夫婦の5人のボックス。何と無く、ボックス内は会話もなく、気まずいとまではいいすぎだが、少し緊張している。

これを打ち破ることが起きた。

急に車掌から、次のピルゼンで列車を乗り換えるようの指示があった。英語を喋れないようでドボルジャークの男性が通訳をしてくれた。男性に改めて礼を言うと信頼を確認できた。男性はピルゼンで降りた。ビールを造りにいくのだろうか。

僕らはその隣のフランス人らしい夫婦とともに列車を移動した。この列車のホームと列車の間の階段が最悪で、ステップの幅が狭く、ステップを使わず、一気にスーツケースをホームから列車に上げなくてはならない。
がんばって、荷物をあげ、席に向かうとなぜか若者が6名陣取っていた。
まさかこれから、4時間席なし!と思いながら、若い女性の車掌に相談。彼女の答えは、アイドンノウであった。。彼女は上司に聞きにそのばをたちさった。

ここまで来ると、笑いがでた。。この状態で日本なら、私、わかりませんというはずもないし、この程度で動揺してしまっていることに逆に、頑張れと応援したくなった。

結局、我々フランス人と4人は、他の空いている席で許可された。最初からそうすればいいのに。。おかげで気難しそうなフランス人とは距離がちぢんだ。しかし、乗り換えたピルゼンでは、写真も撮れず残念。
犬は多くがリードをしていない。つまり、放し飼いなのである。プラハのトラムが走る街中でも放し飼いなのは驚いた。つまり、細い歩道を車にひかれず、犬が判断して歩くのである。また、吠える犬がほとんど皆無で、日本の犬よりストレスを感じていないように思えた。犬ってこんなにスキップするように歩くのだっけと感じたほどだ。妻は道でジャックラッセルテリアを見るとストーカーになっていた。。

食事は、うまい。

ボヘミアンバーガー
カロリーを気にしていないのか、ボヘミアンバーガーのビーフは感激だった。外国でお腹すいているからというのもあろうが、油とベーコンとの絡みがワイルドで、もはや、マックのワイルドは、マイルドであろう。原料の単価をあげて欲しい。

ピルセンビールはいくらでも飲めた。サッパリでありながら、最初の口当たりのボリュームは快感だ。ワインもさっぱり目で甘くなく、ボヘミアの舌のレベルの高さを感じた。欧州に来ると昼間からでもビールが飲める。日本でもできるが、なんとなく後ろめたさが残り、本来の意味でうまいビールは飲めない。それはそれで、改善しなければだが。。
車窓からの風景ードイツ国境近く北海道のような情景が続く

列車は、ゆっくりすすむ。

景色は、秋の北海道の景色だ。刈り入れ終わった麦畑の茶色が広大に続き、ある時は、山いっぱいの牧場が美しい。車道にはだいたい木が植えられ、丘が重なる上に走る車道の蛇行が山の奥行きを感じさせる。家は、白い壁に三角の屋根が可愛らしい。かならず、赤茶色の屋根である。チェコの印象とあっている。たしか、広島や山口でも赤茶色の瓦の屋根が多いが、これは、鉄分を含み酸化されるからと聞いた。同じような理由なのだろうか。


山間部は牛や馬が放し飼いなのか、頻繁に速度を落として汽笛を鳴らす。隣のフランス人がこの警笛で目覚めてしまうほどだ。各駅での停車時間も長い。しかし、旅ってこういうものだよなと思い出す。新幹線や飛行機で最短時間で移動しながらもメールをチェックしている自分を思い出す。僕らはこんなに効率的に生きることを追求していて大丈夫なのだろうか。

彼らは、友人や恋人に会うと、最初に目を合わせて、次に頬にキスをする。年配の女性同士が、行うのを見て、素敵に思えた。心を通える人と共に生きて行くだけで人生は充実できる、そんなことを感じた。

西欧人は、食べる量が多いが、メタボにならない体質の強さがあるように思える。自分たちが同じぐらい食べると、大変なことになりそうだ。でも、ボヘミアンハンバーガーはたまに食べたい。体格は大きい。僕はこっちで生活すべきであろう。

今、ドイツに入ったようだ。

妙に、列車が前より早く走る。汽笛がならなくなった。車掌が変わっていたら、ドイツ人の生真面目さゆえに、正規の席に戻るように言われたら困るね、などと冗談を言う。しかし日本と韓国や中国の国境で、もし、運転手や車掌が変わったら、などと考えてしまった。韓国の船の事故である。

鉄道が50分遅れていることを、妻が笑って指摘した。日本なら災害時相当の遅れだ。僕らは、今日、ミュンヘンから2時間かかるフュッセンに夜までに入らなくていけない。でも、なんとかなると僕ら自身も普通に思っている、この雰囲気は心地良い。

ドイツ人の売り子が来た。売り子と言っても、僕より年上のおじさんであろう。制服をきて、ボックスひとつひとつに声がけをしている。これは日本では当たり前かもしれないが、ドイツ人になってからであり、さきほどまでは、私服でジュースを運びに来た。

「チェコ側では、仕事だから仕方なく売り子をやっていた感じだったけど、ドイツ人は売る気があったよね」との妻のセリフ。

チェコの売り子を笑うのではない。売り子という商売に対する鉄道会社の心構えの違いを言いたい。全く同じ状況での業務で有るが、売り子に必要なアイテムをつけさせて、売り子に使命も感じさせて行動させることは、商売で重要だ。

もちろん、チェコではそこまで投資できないからということもあろうが、中途半端な心構えは、売り子という職業に失礼なのかもしれないと僭越ながら感じた。宮崎でも同様のことがありそうだ。

ルーゲンズバーグで、ドイツ人夫人が我々のボックスに加わった。ドイツ人ってこんなに陽気なのだと思うほど元気だった。

ドイツに入ると駅は、日本に似ている。ホームや道路もコンクリートだ。ただ、根本的な部分はチェコとあまり変わらないとも言える。それは昔、占領地であったからでもあろう。
ドイツの家も白い壁に三角屋根であるが、焦茶色の屋根も多い。そして、古い家に太陽光発電を備えている。ところで、ドイツのホテルは、高級な所でもエアコンがない所が多い。日本人ほど電気を使わないのかもしれない。

約30分遅れでミュンヘンに着く。

さて、フュッセンまでの電車はあるか。というのも、実は僕らの最終目的地はミュンヘンから2時間先に行ったフュッセンである。しかし、午前中に予定していたプラハ発ミュンヘン行きは切符が取れず、急遽、午後の電車となった。そのため、フュッセン行きの列車があるのかわからない。

ミュンヘン駅に着き、ドイツが初めての我々は、全ての表示は、ドイツ語のみであることに、若干、動揺しつつ、DBがドイツの鉄道会社であると妻が気がつく。DBの受付は、混雑するも、運良く英語で若い受付の男性に話しかけてもらえた。よっぽど困っているように見えたに違いない。21時発23時過ぎ着があるけど、着くの遅いよ。というアドバイス。ひとまず、今日中につけそうなことに安堵。

チケット購入の受付番号カードを片手に待っていると妻が気がつく。「ホテル、22時でチェクイン受け付けないって書いてあるよ」とホテルのホームページを片手に。

ひとまず、ホテルに電話だ。

ホテルに入れてくれれば、フュッセンまで行くし、入れてくれなければ、ミュンヘンに泊まろう。どうやって電話をかけるか?まずは公衆電話。なんとか見つけて受話器を取るも、クレジットカードが認識しない。今回の旅が前回とは違うのは、携帯電話が使えることだ。使い放題のネットワークにつなげると、日本からの留守電やショートメールを受信。ホテルにでんわ。運良くつながり、事情を説明すると、着いたらドアノックしたら入れてくれるということ。「Really?」と聞くと、相手は笑いながら、OKとの返事。

フュッセン行きのチケットを無事購入し、なんとかなりそうに安心していると、アジアンフード屋さんが目の前に。プラハでは見当たらなかったので、たまらず、カツレツと焼きそばのセットとコーラを頼み、腹ごしらえ。



いざ、車両に乗り込むも、チケットはホームでの打刻がないと、罰金40ユーロということ。。打刻はしていない。。列車は発射した。。

いつ、車掌がチケットを確認に来るか。その時は来た。金髪と制服の青年が確認に来た。我々は、ユダヤ人になったかのようだった。妻は、打刻するなんて知りませんでした、と言い切るつもりで演技前、準備十分な状態。しかし、思いがけず、かれはサンキューと言いながら、ハンコを押した。これに妻は、驚き、返ってええーといいそうな驚きの顔で僕を顔見。これに反応して、青年も僕を顔見。僕は、妻がなんでそんな顔するんだ、嘘つけない人だなと思いながら、とぼけて無視すると、隣の女性が、タイミング良く青年に話しかけて、空気はごまかされた。

後で調べると、時刻が入っているチケットは打刻が必要ないということだった。。

フュッセンに到着。時刻は23時半をまわっている。降りた客は我々含めて、5人のみ。
イメージで言うと、軽井沢に最終便で到着した感じであろう。

ホテルまでは、9分歩く。真っ暗だ。緑に囲まれたホテルがみつかる。入口の明かりを頼りに、ドアフォンを押す。若い少年が快く鍵を渡してくれた。

朝。まるで、ミヒャエルエンデのネバーエンディイングストーリーを連想させる幻想的な山と森。針葉樹の葉の細かさが繊細な美しさを感じさせる。これがドイツか!自然の美しさと気候の良さに感動。


ミヒャエル・エンデの世界が現実に!?

ここで絵本読んでもらいたい!?

2014年7月5日土曜日

豊かに生きてる人からのヒント

この時期の日南の南郷プリンスホテルからの景色
なんとこの景色で、朝食付き7000円は格安!?

九州に来てから、年配の方とお話させていただく機会が増えました。結構、現役時代にはBIGなことをやられていた方も多く、彼らの話を聞くと人間や仕事に対する心構えといいますか、どのように、出来事や人間や社会を捉えて、判断し、行動していくかが参考になります。

★挟持ってなに?

「小木さんは挟持が足りないかも」とご指摘を受け、、

そもそも、「挟持」って、知らない・・。

知らないものは、持っていようがないよな・・など思い、教養がない自分を反省。

簡単な言葉で言うと、確固たる自分を持つということのようです。

人とのコミュニケーション能力がある程度あると、若干、八方美人にもなりがちで、相手の意見に左右され、結局、自分の大事なものを見失いがちな場合も。本当に自分が大事な意思も、はっきり相手にぶつけて、初めて、高いコミュニケーションが発揮できる。そんな自分を目指さないと。全くやっていないわけではないと思いますが、まだまだ高める必要があるのでしょう。

「自信」という言葉は、若干、自分はネガティブに捉えがちで、なんだか、自分勝手といいますか、傲慢なイメージが強く、自信をポジティブに考える傾向が弱いことに気が付きました。謙虚という言葉と、自信という言葉は、若干、背反にあるようなイメージもあったのですが、普通に、両立できることを意識しなくてはいけません。

「自信」を、なくして、人を導いていけないですし、社会に影響をあたえることは出来ないのは当然です。自信を自分の骨にしていく考え方が、挟持へのヒントになるのでしょう。

★意識が視点を作り、視点が認識を生む

僕らが物事を判断するときは、その判断対象に対する認識が基準になると思います。それでは、この認識はどうやって生まれるか?認識するためには、その認識対象に目を向ける必要があります。ですので、認識は視点によって生まれます。それでは、その視点はどう生まれるか?視点は意識されないと生まれないので、視点は意識によって生まれます。それでは、意識はどうやって生まれるのか?これは、めちゃくちゃ、難しい・・。暗黙知やいわゆる右脳の世界になってきますね・・。端的に言ってしまうと、意識は、感覚のセンサーによって生まれるのかと思います。

なので、僕らは、仕事ができる人のことを「あいつはセンスがある」という言い方をするのでは!?感度の高いセンサーがあれば、意識が生まれやすく、それに関する視点ができて、認識が生成されておける。

つまり、認識は多ければ多いほど、豊かな人間(相手を思いやれる、世界の事柄をたくさん認識できる)になるのでは!?ということです。

よく、考え過ぎって、よくない!?って考えていましたが、それは、あまり良くないこととか、発展的ではないことを考えるから、良くないのであって、常にセンサー→意識→視点→認識により、認識をたくさん作っておくことは、豊かな人間になれることではないかと思います。

貴方のセンサーがたくさん感知すべく、世界の変わった人と語りあったり、体験をすることが豊かな人間形成に大事なのではないかと思います。


★愛と愛情は違う?

この質問の答えは、分かりますか?

愛情は、見返りを求めるけど、愛は、一方的なんだよ。誰かに何かを施して、見返りを求めるか、求めないか。神は、愛を一方的に与えるだけで、自分は見返りを求めない。でも、普通の人間は、見返りを求めるよね。それは、愛情ということ。

リーダーになるには、愛の要素が必要なんだと思います。でも、普通の人間だから愛情になってしまう。それが現実なのでしょう。賃金を払うから仕事をやってもらう、相手のことを想いやるから、自分も想ってほしい。僕が残業したから、あなたも手伝って。こういう考え方は、人にとっては普通ですよね。

リーダーは、相手と同じレベルに立って判断しない場合も必要。同じレベルでタイマンをはっていては(なんで自分がしてあげたのに、相手がしてくれないことに腹を立てるなど)、先に進まないことも多々ある。そんなとき、相手が(仕事など)してくれなくても、「僕が時間があるときにしておくよ」と、さらにその後の見返りを求めず、言えるか!?振る舞いとしてはできるけど、本気では無理そう・・。

人は、神様ではないですから。まあでも、まずは、このことを認識してみることから一歩ですね。