2012年3月16日金曜日

震災から一年をむかえて (その1)

昨年の春から、宮崎に来ていますが、宮崎の人に、昨年の春から宮崎に来ていることを告げると、「あ、震災があったからですか?」とよく聞かれます。震災の前に、宮崎に来ることは決めていたので、自分としては、後ろめたさはなく、宮崎に来ることと、震災は全く関係がありませんでした。しかし、宮崎に引っ越すにあたって、埼玉の住居は当然、空くわけでして、そこから、被災された浪江町の家族との関係が始まりました。

下記の内容は、個人情報も含みますので、ブログに書こうか一年間、迷い続けたのですが、震災から一年経つので、そろそろ、公開したほうが、みなさんの震災に関する関心も、さらに高まり、身近なこととして捉えられるのではないかと思いまして、被災者の方の許可を得て、僭越ながらブログに書かせて頂きました。



震災の日は、我々、家族は、東京近郊にいましたが、特に大きな事故もなく、帰宅難民になることもなく、妻も僕も、地震発生から、およそ2時間後には、自宅におりました。犬のアトムが、妙に怖がっていて、その後も、地震警報の「ミャンミャン ミャンミャン」という音がなると、敏感に反応するようになりました(これは、宮崎に来ても反応していましたね)。

震災がニュースで大きく報道される中、我々は、明後日から宮崎に発つ必要がありました。春からの生活のためにアパート探しをするためです。そのため、せっせと旅の準備をして、日曜日に、羽田を発ちました。震災のとても暗いニュースの中、宮崎は、明るく、空が明るい思いがしました。

無事に宮崎で、今の賃貸住居を決められて、埼玉に帰って来ました。そこで、私は、埼玉で購入して、ローン支払い中のマンションを、誰かに賃貸しないことには、宮崎にいる間の家賃がもったいないと考えました。川口のアパマンショップなどに訪れて、賃貸募集の案内の手続きをしておりました。

その日の夜でした。

埼玉では、さいたまスーパーアリーナに多くの方が被災後、避難していましたが、無料開放がおわるということ。
被災者の方は他の場所を見つけなくてはいけないのですが、その受け入れ先がなかなか、みつからないというニュース。

埼玉の都市部に住んでいる我々も、”ひとごと”ではないが、今ひとつ、自分のこととしては、捉えられない。でも、何かやらなくてはいけない気がしてはいる。でも、当然、一歩進む勇気は、僕にはない。

同じ日の、ワールドビジネスサテライトだったと思います。震災ホームステイというサイトがあって、そこで、被災者と住居を提供する人が出会えるというニュース。

「うわあ、これ、タイミング良すぎない?」と、かみさんに聞く私。

「うん、そうだね・・。」じっとテレビを見る妻。

我々は、今まさに、自分たちの埼玉の住居を空けようとしているのです。これで、社会貢献ができることは、大事な事だと思う、思うけど・・。

「これ、見過ごすほど、勇気ないかも・・俺・・。」 「なんか、導かれているような気もするし・・」

といいながら、震災ホームステイのWebページを検索する自分。

これ、簡単だな。住居と連絡先を登録するだけで、住居を探している方と出会えるんだ。

結構、決まっている人もいるけど、決まっていない人も多いね・・。


普通に考えると、自分の家の部屋を一室提供するだけでは、お互い、プライベシーもあるから、きつい・・、という状況になることは、簡単に予想がつく。

それに対して、うちは、完全に家が開くし、犬もOKだから、ニーズ高いかもな・・。

「じゃあ、ひとまず、登録だけしてみて、アパマンが決まるより、被災者の希望の方が早かったら、こっちに決めるか考えよう。」と、若干、安易な考え方ではあったかもしれないが、妻と相談して、僕らは登録を決めた。


正直に言いますと、僕の頭の中では、現在のマンションの住み手が最終的に決まるまでは、アパマンの募集と、マンションの内覧があって、家賃の調整があるため、結果的に、マンションが実際に利用されるまでは、短くても2,3ヶ月の空き期間が発生してしまうと考えました。ですので、その期間は、被災者の方に住んでもらえばいいんだ、と考えました。



次の日の午前中。

「小木さんの提供物件について、被災者の方が、是非、住みたいと言っております。直接、被災者の方からご連絡をさし上げてもよろしいですか?」

やや緊迫した声で、震災ホームステイの担当者からの電話がありました。

続く。

(写真は、震災のときに、川口で起こった、計画停電のときのマンションやビルの写真です。さすがに、大きなビルから、まったく電気を感じなかったので、衝撃的でした。)