2015年10月13日火曜日

行動の選択

僕は、寄付をするという習慣がほとんどないです。

赤い羽根募金も付き合いぐらいの感覚で、結構、冷たい人間だなと。なんでかなと思っていたのですが、根本的な日本人の意識があると教えてもらいました。

日本は、中流階級が多く格差が小さいから、富裕層と貧困層の認識が甘く(実際にはあると思いますが)、自分が富裕層で、他人に施しをするべきという意識が少ない。また、日本は宗教国ではないので、救うという意識が小さい。貧困は本人が努力していないからだという思い込みが大きい、ということ。

先日見た「Living On one doller」という映画では、米国人の学生が1日1ドル以下で生活する地域に移住して実際に1日1ドル以下で生活するドキュメント映画。

1日1ドル以下で8人家族を養うグアテマラの家庭が、主人公の米国人に食事を招待したり、隣人の妻の治療費を負担してあげるシーンが感動的でした。

環境がどんな状況でも、行動の選択はその人間にある、この言葉は、フランクルの「夜と霧」から教わりましたが、改めて意識しました。

どんなに貧困であっても、他人に愛情(施し)を与えることはできる。

自分が富裕だから、寄付をしよう、自分が富裕ではないから、寄付はやめよう、こんな考え方は誤っているのかもしれません。

マズローの5段階の欲求の階層で、どの階層の欲求を望んでいるかによって、その人がどんな人間かわかると教えてもらいました。

将来の仕事や、自己実現、社会的役割の実現などに悩む自分は上の階層にいると思います。上の階層の欲求を求める者は、下の階層の者を理解し難い。自分の場合は、その階層の階段を、生まれながらにして与えられた社会(平和で経済的豊かな日本の社会)が越えてくれたところが大きいと思います。しかし、自分の中で、下の階層にいる人は、その個人が努力していないから、まだ、そのレベルなんだという意識が、深いところに、あるように思います。

その人が努力しても、その状態を変えられないほど、困難な運命がある。その困難な運命でありながらも、お腹をすかせながら、隣の人に自分のパンを渡す・・。それは、その人の選択。

自分は、腹をすかせた時に、パンを渡すことができるのだろうか。行動の選択は、人間に残されていることを、忘れないようにしたい。