2014年11月16日日曜日

裸になって人から本質を指摘されることは、飛躍のヒントでは。




阿蘇 大観峰周辺の牧場(エルパティオ)

今回は、カミングアウトします。このブログの女性ファンには、少し刺激的!?かもしれません・・。

大学のコンパ芸で、裸になりました(全裸です)・・。

私は、管弦楽団という、女性が多い部にいましたので、男性が裸になる・・パンツを脱ぐなどはご法度でした。しかし、大学の合宿のコンパ芸で、なにかやらなくてはいけない・・と追い詰められた自分は、洗面器浮遊術などを披露するはめに。どのような術かは、皆様のご想像にお任せします・・。しかし、意外にも、術の披露後に、女性からも暖かい声をいただいたような・・(そう、思い込ませてください・・)。

なぜ、このようなことをカミング・アウトしたかというと、最近、久しぶりに、心が裸になって清々しい気持ちになったからです。

「小木さんは自尊心、悪く言うと、自己顕示欲が強すぎるときがある。自分が他人を支配したいと思って行動している時あるよね。」と指摘。

この指摘は、ずしん、ときました・・。地方に来て3年。事務所も落ち着いてきて、弁理士として、少し安定してきたことは認めるところ。要するに、自分の鼻が高くなって、自信が強まっていることも否めないのでしょう。

これは、自分にとって非常に大切な師匠&親友に指摘され、しかも、複数人から言われたので、さすがの自分も認めるしかない状態。

僕は、実は、この指摘の真逆で、子供の頃から、自分に自信がなく、こだわりがなく、やりたいことを諦めて、失っていた人間でした。自分のやりたいことができて、人をリードできるような人間になりたい!けど、なれるとはとても思えない・・という子供時代でした。しかし、働いて、自分が活かせる仕事を見つけて、少しづつ自分が描く未来に共感する仲間が現れてきて、自分がリーダっぽくなっていく場面が徐々に増えてきました。

そして、僕を変えた大きなポイントは、宮崎に来たことでしょう。


弁理士が数名しかいない地方で、この希少な資格を持っているのであれば、自分が動かなきゃ、宮崎の大事な知財が埋もれるのでは、という危機感は強くありました。

ですので、激しく動き回りました。

これが、いい意味で自尊心の原因になったのでしょう。責任や覚悟という言葉も意識し始めました。しかし、度が過ぎて視点がずれると、自己顕示欲にもなりうるということでしょう。これは未来を描くときに、我を優先するのか、相手を優先するのかの視点の持ち方の違いかもしれません。僕は、我を見てしまうこと、自分のみが認められたいと思う傾向があることに気が付きました。器が小さな自分をそこに見いだせました。

いずれにしても、僕は、このことをはっきり指摘してくれたことが非常に嬉しく、このことを考えて、ブログにまで掲載できるようになるまでは、時間がかかりました。しかし、裸の自分になって、このことを受け入れると、自我が少し広がったような感覚になりました。

たとえば、弁理士や弁護士など、ある程度、社会的に地位が高いと思われてしまう専門家であると、なかなか、このような本質の指摘は、他人はしてくれないように思います。それを言う必要はないからです。しかし、あえて、言ってもらうことで、新しい自分が作られた感覚です。

なぜか、これを意識してから、肩が軽くなったように感じ、さらに大きな責任も自分の肩に載せられるのでは、という感覚になっています。

これは、師匠によると、徐々に、我を捨てて考えられるようになり、自我が広がって、肝が座り、覚悟ができはじめているからでは、とおっしゃっていました。

このような人生における、「過程」を感じられることは幸せです。発展途上である自分は、幸せなのかもしれません。

裸になって、人から本質的な自分の指摘をされることは、自分にとって、大きな飛躍のヒントになるのかもしれません。

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